4月、5月
4月
東京同窓会で卒業生に会ってきた。
参加者、22名。
十九の春やら、社会人1年生、2年生、3年生、中堅、
この同窓会を支えるひと桁の、50代の重鎮たち、
みな元気だった。
小袁治師匠も毎年参加してくれる。
有難い。
出逢って40年は過ぎた。
切れずに続いた縁の糸がうれしい。
それは、どの卒業生にも通ずる。
北仙台駅前の「北剏舎」に通っていて、
10年経ち、20年、30年、40年、
月日が経っても、
年に一度、逢えるのは奇遇と果報と言えるかもしれない。
CHちゃん......が私の横に座った。
忘れられない開塾前の、或る塾に勤めていた頃のゼロ期生と呼んでいる卒業生です。
当時は、ショートカット、黒い瞳、聡明で、口数は少ないけれど
話せば発言は的を射ている。
でもどこか大人や友達を警戒しているような、
観察しているような、
鋭さと切なさ、胸が痛くなるほど伝わってきたのを覚えています。
そして、CHちゃん、ただあなたが愛しかったのを覚えています。
同窓会を終えて、夫が一言コメントを参加者全員に依頼したら、
CHちゃんから
文章が送られてきた。
「思春期のひと時を今北先生、玲子先生と共に過ごした、という
共通項があって、それだけで私たちは八重洲に集結したんだ......
稀有なことではないか。
帰りの電車はその 『稀有な素敵な出会い』 に
思いを巡らせて車中、あっという間の2時間。
高校3年生の時、母が乳がんになって5年後に亡くなったのだけれど、
いろいろ辛すぎて、その頃を記憶を封印したらしく、
はたから見れば
青春のキラキラした時期だろうが、楽しかったことも含めて思いだせない。
けれども、その時期以前も以後も、
なぜか今北先生ご夫妻とのあれこれについては
映像がはっきりと浮かぶ。
初対面の時のこと、
学校と違って頭に入って来る数学、
いつもちょっとはずれた感覚で
物事を受け止める私の感性を認めて下さった玲子先生の国語の授業、
(いつも変な自分に悩んでいたけれど、いいんだ、と思えたのは玲子先生のおかげ)
今北先生が一女高の合格発表にバイクで来て下さっておめでとうを言ってくれたこと、
八木山のお宅に遊びに行ったこと、
母の国分町のお店でカウンター席に座っている先生。
大学に受かって仙台を離れるときに、
籐のかごをお二人からお祝いにいただいたこと、
(かご好きでリクエストさせてもらった!蓋が壊れたけどいまだ現役使用中)
母のお葬式に来て下さった先生。
先生と出会った中学生の頃は、
親は永遠に死なないと思っていたけれど、
大切な人でも物でも必ずお別れがあることを知った。
だから毎日が大事なんだってわかった。
もう40年経ちましたよ、先生。
先生ご夫妻も私も、いろんなことがありながら
40年も生き続けてきたのですね。
さて、子育てもほぼ終えた今、
次に私が描いている構想はミツバチとの暮らし。
昨年春から2群飼い始めて、
秋にはミツバチを狙うスズメバチとの死闘を繰り広げ、
(捕虫網で1匹ずつ捕まえては、焼酎やらハチミツやらに漬け込む命がけの作業)
ハラハラドキドキの越冬を乗り越え、
やっと3群に増え、
そのうち2群の新女王が交尾飛行に
出かけて戻りを待っているところです。
ツバメに食われるかもしれないし、
雨に打たれて寒くて死ぬかもしれないし、
そもそもオスに出会えないかもしれない。
旅立だった娘の身を案じて、夜も寝られやしない今日この頃。
1匹のハチが集めるハチミツは、
テイースプーン1杯にも満たないほどだとか。
そしてハチがいなかったら、作物は実らない。
毎日ハチミツをなめる度に、
ああ、ハチの一生分の業績だ、と感謝するのです。
そして先生ご夫妻のこれまでの業績は
毎年、4月に東京に向かってくるたくさんのベクトルが示すとおり、
教育に携わるって
こういうことなんだ、と腹に落ちた4月の佳き夜でした。」
それからまもなく、
CHちゃんからハチミツが届きました。
小さな瓶の中に、とろり琥珀色の、ハチミツ。
ふたを開けるのもどかしいほどで、
ひと匙のハチミツを口に入れました。
すっきりとした、甘いけれど潔い、CHちゃんの味がしました。
人には別れがあることを覚悟の上で、
大病を乗り切り、毎日が大切なんだって、
迷わず、自分の好きなことに生きることを選んだのでしたね。
命賭けのスズメバチとの死闘も厭わない、なんて
だれでもできることではない。
じっと何かを見つめ、いつも何かを探していた、
15歳で出会った時の、黒い瞳の少女と変わらない。
はちを愛し、スズメバチと格闘するあなたを見習って、
また、来年、今でも愛しいあなたと会いたいです。
4月から5月、
新しい子どもたちが入塾しました。
きっかけは様々で、
お兄ちゃんが通っていたから、
3月のチラシを見て、
バスから見える北剏舎の看板がずっと気になっていて、
或いは、
「当時、中学生だった頃、北剏舎に同級生が通っていました。
自分は塾はどこにも通わなかったけれど、娘は北剏舎と思っていました」
また、
「我が子を通わせたかったけれど、通わせられなかったんです。
でも孫はここと思っていましたのでお願いします」
この二つのご縁は数十年前にあったのだと思うと、なんだか嬉しいです。
そのお孫さん、
小3のT君は授業が始まるまで階段の、踊り場の本棚の前に
座り、夢中で本を読んでいる。
「はだしのゲン」
塾生が誰もが手に取る本ではない。
今25歳になる、小学生だったYちゃんが
学校の先生に読んでもらった「はだしのゲン」に
感動して塾日誌を書いてくれました。
以来、
この本に興味を持ってくれた生徒はいなかったように思います。
小3の子どもの目に、戦争の傷跡が刻まれていくのが
読む姿で伝わってくる。
国語辞典の引き方が学校の単元で出てくるので、
先取りの授業をしていたら、
「空襲」「原爆」「戦争」
先生、引いていいですか?
いいよ。
小さな手が辞書のページを繰る。
なかなか出てこない。
「あった!」
無心に読んでいる。
必要だからとか、覚えなければ、
とかそういうことではない。
はだしのゲンに出てくる
言葉だから引いてみたい。
小さな手と文字を追う目は
悲惨の意味を知りたい目で、
知ったら誰かに伝えたいようだ。
「読んでみてほしいな」
「いいの?」
「いいよ」
「空襲はね、......」
「原爆はね......」
「戦争はね......」
声に出して読んでくれた。
子どもの声は沁みる。
この二人の時間をずっとずっと覚えてくれたらいいな。
いや、忘れてもいい。
辞書を引くのはなんだかいい。
それだけ覚えてくれたらいいです。
玲子