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ひめゆり 今日は11月2日

連日、テロ特措法の審議が続いている。
証人喚問の守屋元事務次官はストレスの溜まった当時の心境は正直に述べるが、肝心の給油量や
随意契約などなどの真実は何も明らかにならなかった。
11月1日、特措法の期限切れで自衛隊がインド洋から撤収する。

「ひめゆり」ドキュメント映画を思い出す。

7月27日・日記
柴田昌平監督の22人のひめゆり学徒の証言を綴った映画が弁護士会館で上映するとあって
塾生を連れて行った。
夏期講習を一日休みにした。

2時間10分の証言。
終わって、家に帰ったら尋常ではなく身体が重い。
重労働したわけではない。誰に気遣いをしたわけではない。
多くの証言が身体に残った。
蹂躙されて、抵抗も防御もできない。
証言は消えない・悲しみだった。

でも、清らjかな感じもした。
証言の皆さんの瞳だ。
その時、なにが起こったか。語るに苦しいのに
皆、優しい瞳をこちらに向けていた。
伝えたい人、その視線の先は若者であったろうか。
怖がらせてはならない。かといって事実を曲げてはならない。
伝えるべきものは伝える。
「悲惨な中を生きてきたの。だから事実を話す」
耳を覆う事実なのに
瞳が優しい。
「起きたことなの。今まで話せなかったの」
胸の中でつぶやいている気がした。

ひめゆり 副題
「忘れたいことを話してくれてありがとう」
まさにそうだった。

私は久しぶりに亡くなった母を見た。
学徒動員で私の母は多賀城の軍需工場に10代を過ごした。アルフアベットも知らない。勉強は全くしなかった。配電ばかりよくわかっていた母だった。
自分たちよりひどい状況に置かれたひめゆりの方々を戦後、知りえたのだろう。
戦後、映画にもなり、私が美しい女優たちで全国配給された映画に興味を持って「なあに、ひめゆりって」答えてもらえなかった。「映画の話だからね」「じゃあ、本当はちがうの?お母さん」
母は聞えない振りして答えなかった。
父はシベリアに抑留、捕虜となり、テレビ画面にハバロスクと地名が映し出されると戦争体験を話したがった。酔うと「ハバロスク、ハバロスク、ラララ、ハバロスク」戦友と歌った歌を歌い、子どもの前でもよく泣いた。
母は「小さい子に恐ろしいことは言わないで。怖がらせないで。大人になってから言って」
父は「今のうちに言っておかないと又、戦争が起きる」二人は平行線だった。子どもながらにどちらが正しいわけではないと思った。
母はひめゆりの皆さんと同時代を生きたからこそ、代弁はできなかったろう。今になって無言の母の横顔の意味を知る。母は学徒動員の生活がいやで、友達と抜け出した。東北本線の線路伝いに歩けば、家に帰れる、暗い線路を父母恋しさに一晩中歩いたという。汽車の音がすれば、松島のトンネルの避難のくぼみに隠れ、歩き通し帰り着いた。
ひめゆり宮城喜久子さんの証言・「お母さんにもう一度会いたい」

塾生は最後まで見続けた。
皆さんの記憶を残す息遣いがあるから、
悲惨で残酷な事実も見つめられた。
平和を心から望む瞳に見つめられるから、
想像しただけで苦しくなるような血の匂いも
同級生の無残な最期も、
見つめられた。

「大きな傷を負った人の精神科医療の
通底ともいえるものがこの映画にはある。」

精神科医のコメントが映画のちらしにあった。

戦争のない今の世なのに、大きな傷を背負う人はいる。
消えぬ悲しみは
深く生きた人の言葉によって心の深い場所で抱かれる。
今北玲子

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2007年7月29日 21:10に投稿されたエントリーのページです。

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