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授業もいろいろだろうが・・・

ずっと,
もやもやっとしていた「ぶたといた教室」
映画になって,
数多くの賞も受けていて。
見たいとは思わなかったが、
違和感はどこから来るものやら・・・

この映画は
小学6年生に命を教えた,
いい映画なのだろうが、
なんだか、もやもやと、賛否両論のどちらとも言えず、
誰かに聞いてみることも、夫に聞いてみることもできずに
いて、・・
今日、美容院で読んだ、作家・梨木香歩のエッセイにすっきりした。
氏は
ぶたではないが、10数年前に
ある小学校でニワトリを飼って
普段何気なく食べているものは
「いのち」なのだという授業に「違和感」を感じていた。

その後、アフリカに行った時、
案内人が「チキンを買うから」車を止めると
羽をばたつかせる生きたニワトリを売る現地の人に囲まれた。
翌日
「いのち」を迎い入れるのになんのためらいもなかった。
走り回っているニワトリを解体し、食することがいかにも自然で必然だった。

以下抜粋、引用
(小学校で行われた「いのちの授業」に戻るけど、
パック詰めのトリ肉があふれている社会で
わざわざペットのように
飼っていたニワトリを殺して食べるというのは
やはり「不自然」だったのだ。
「愛するペットといえども皆が今日の糧を得るためにどうしても食べなければならない」
という訳ではなかった。
今にして思えば
どうしても教師の勇み足だったように思う。
「生きるため」もしくは、
「これがおいしいのだ、是非食べたい」
という体全体から生じてくる欲求を「食べこなしてやる」
という迫力でもって満たすのならまだ、分かる気がする。
・・・・・略
そうではなく
「教育のため」などという大義名分の理屈から成った、
独りよがりの目的が
「いのち」を犠牲にするのにどう考えても弱く、
不適切だったのだ。
あの頃、感じていた違和感の正体はこれだったのである。
「教育のため」なら食肉処理センターへ見学に行けばよかった。
・・・略
教育のため、お国のため、と簡単に言葉は入れ替わっていく。
「場が要求する自然」は
ごく普通に 
ニワトリが庭から食卓へ上がるような
「自然」であり、
昂揚した場が
ヒステリックに要求する無意味な犠牲とは違う)

読んで、すとんと納得した。

数10年前の「いのちの授業」のニワトリは食べられた・・・という。
ニワトリを飼っていた小学生は最初ずっと泣いていたが、最後には食べたのだそうだ。

「いのち」の授業は大切な教育であろうが、
愛護を育ててから、さあ、この「いのち」の大切さを
皆でいただきましょう・・・
情を切り刻むというものだろう。
切り刻まれたから、その小学生は抵抗し、泣いたのではなかったろうか。
涙にいのちの有難さはあったのだろうか。
「ぶたのいた教室」
実話の皆さんは
15年前の小学生を思い出し、
映画を見て号泣したという。
(号泣の意味を知らないのになんとも言えないが、涙があふれたことには違いないのだろう)

私の小学生の3年だったろうか。
雑種の犬に
4匹も産まれて、貰い手がなくて
母犬しか飼えないから、二人で川に流してきなさい。
母が言った。

いやだと言ったか、素直にうんと言ったか、後者だったと思う。
母には逆らえない。
妹と二人で
スーパーの茶色い袋にモクモクと生きている子犬を
渡され、
断れず、
言うとおり、
川の橋から
何も考えず、それをしなかったら叱られるから
袋を放した。

それはよくあることではあった。
プールのない頃、
夏休みの川の
遊泳禁止のひも1本向こうには
子猫も子犬も流れてくる、太った豚もぷかぷか流れてくる、
動物は川に流れる、いつものことで、
仕方がないことと知っていたから、
茶袋を落とした。

落としたら、帰ればいいものを
落ちても袋が動いている形、
袋がとぷんと沈むまで、
川の流れがそれを飲んでしまうのを見つめた。

妹に
「帰るか」
小さい妹は素直に
「うん」
どういうわけか、私は振り返った。
なんということか、沈んだはずなのに
ぷかっと袋が浮いて、
かすかに命は動いていて、
助けようにも、それは自分たちにはできなくて
考えないようにして、
今度こそ、
「帰ろう」
空ばかり見て歩いた。

「・・・飼えないんだから、無理して飼ったらかわいそうだから」
母の言葉を頼りに
歩いた。そのうち、
「走ろう」
妹と二人で
家を目指して思い切り走った。

母が
人間は勝手で残酷だからね、
私たちにそういう授業をしたとは思えない。

川に捨てる前日、
生まれたうちの1匹が庭の池でおぼれた。
母の心はあの時、決まったと思う。
「このまま飼ってもしょうがない。
番犬は母犬だけでいい。」
母の顔は迷いもなく、隙のない横顔だった。

いのちのいの字もない、
こちらの事情だけれど
決めた母も捨てた私も果ては一緒、同じだった。

夏休みに
ぶたの流れる川で
泳ぎ、
ぶたの屍体に子供たちは
見えなくなるまで見た挙句、
「汚ねえー・気持ち悪りーい」
男の子たちは笑ってその川にもぐった。

子供は言わなきゃ、教えなきゃ
日常のいのちのありがたみはわからないのではない。
笑いながらでも、海に還る家畜の弱さを感じた。

今も残るは
生かしてあげられなかった・・。
川面に
しきりとしていた子犬の鳴き声がぷつっと消えた瞬間・・
胸が絞られるって・・・感じが残っている。

それでも、平気な顔して
「捨ててきたよ、お母さん」
「ごくろうさん」
母の笑顔を見て
言うことを聞いてよかったと思ったのだ。

それは近所でもよくある話だった。
「俺も捨てに行った」
川捨てはよくある話であっちこっちであった。
私だけ、悲しかったのではなかった。
「場の自然」があれば
何も教えなくとも子供は受け入れられる。

母犬は下を向いていた。
薄目開けて
たまに
くーんと泣くと
「かわいそうにね」
母は鍋いっぱいに煮込んだ骨を振舞った。
母だってつらかったのだ。
大人も子供も犬だって猫だって
別れは悲しいものだって、思った。

「いのち」の、そんな授業があるとしたら
ぶたにニワトリに羊に犬に猫に
楽しく遊んだら分かる。

「お前たちは私たちと違うのね。いつか別れるのよね」
一匹を愛せば分かる。

大人の目論見でぶたやニワトリを飼わせて
食べさせなくとも、食べるかどうか議論しなくとも
苦労しなくとも分かる。

大人だって
「いのち」・・そう簡単に分かるわけじゃないけど、
子供は馬鹿じゃない・・・
わざわざ、授業しなくとも
映画になんぞしなくとも・・・

今北玲子

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2008年12月27日 18:44に投稿されたエントリーのページです。

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