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擬人法

11月下旬から12月中旬。
個人面談月間は沢山のご父兄と会う。
心配事、嬉しかった事、短い時間だが、親御さんの気持ちを聞かせていただくのは
貴重な時間である。
しかし、お忙しい皆さんを教室まで呼びつけるのは筋違いというものだが、
自宅訪問されても気詰まりだろうし、教室までお越しいただくのは有難いことであるが、
お月謝頂きながらご足労とは実に恐縮至極。
すみません。

面談で意外に多いのは
「作文が書けなくて・・」
今日もYちゃんのお母さんが弟のことで心配そうだ。
横から夫が
「ボクは小学生のとき、担任が国語に力を入れた先生で
その後、その先生は大学の学長までした先生で・・すごい先生だったんですが・・
漢字と作文が多かったですね。中でも、ずっと、あれは忘れられないなあ・・」
「なあに?」
「擬人法の作文。最初はわからなかったけれど
隣の女の子が、 私、魚になる!そしたら 、俺は犬・俺は鳥・
俺も書けたなあ」
夫が小学5年生のその日は擬人法の作文だったのだ。

いい先生だなって思った。
小学5年生の記憶は
教室のざわついた雰囲気や夢中で書いた自分、隣の子の様子も鮮やかに覚えていた。
「私も真似しようかな?」
Yちゃんのお母さんもうん、うん、という顔だったから
夫の恩師をご縁と頂戴し、
早速、その日の小学6年生に、夫がお世話になった先生と同じ授業をしてみようと思った。

小6の授業。
なぜ、今日作文を書くのか。
訳を話した。
夫の忘れられない作文の話、それを私も真似してみようと思った事。そのきっかけを作ったのは
小6のMちゃんの「あなたのお母さんなの」
ちゃんと話さないと。
大人も子供もないしね。

それに、なにせ、私の発案ではないのだから、もし、好評であれば、手柄にしたら夫の恩師に
申し訳ない。

「ええっつー!又、作文?」
「玲子先生、この間の・・冬がやってきた・・の作文書いたのに・・
消しゴムもらってないのに、またー!じゃあ、今日書いたら、二つだよ」

はい、そうでした。
前回は
「さあ、冬がやってきました。あなたの冬はどんな冬?」
200字の作文を書いたのに
作文書いたらおもしろ消しゴムあげるって、毎回、約束をしていたのにね。
差し上げませんでした。今日は差し上げます。
小学生は作文を書いたら消しゴムなのです。
私は小さなものが好きで、ハンバーガー、ケーキ、かわいい消しゴムを
作文書いたらあげているのです。
作文は自分の気持ちを書きなさい、それって、
塾の名を借りて子供たちの気持ちを
無料で読ませてもらうのだから、
気持ちばかり・・・お礼をしないと。


「すみませんでしたね、はい、今日は二つ、差し上げます」
「やったー」

「擬人法の作文って?」
「ものでも動物でもなんだって人に見たてるの。
あなたの好きなものに
おなんなさい。
それになったら、その目で周りを見るの。
日本のとても有名な作家も、
このやり方で面白い作品があるのよね」

「知ってる!吾が輩は猫である・・」
即座にN君が言った。
「読んだの?」
「おととい、読んだ」

では初めのほうだけ、皆さんに紹介します。読むね。

『吾輩は猫である。名前はまだない。
どこで生まれたか、見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で
ニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。吾輩はここで始めて(字が違いますよね、漱石は誤字をいかんともしない作家、たまには造語も・・でありますが、才能は誤字脱字ではなさそうです)
人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生というもので・・・」

気がつくと
私の声にあわせてN君が朗読している。
「暗記している?N君」
「なんとなく」

小学生は児童文学を読んだ方がいいとは思わない。
「あなたはすごいです」
褒めずにはいられない。

さて、
「なんだ、そういうこと!俺は何になろうかな・・」

原稿用紙を渡すと前回の「冬がやってきた」
の時はしばらく、空を見ていた子も
もう書けない、いいや、こんなもんで・・マス目に字を埋めるだけの子も
題は『私は○○である』○○は自由です。
黒板に書くと
皆、すぐに書き出した。
「吾が輩は○○である。それでもいいですか?」
いいですよ。

夏目漱石先生は子供たちに火をつけました。
書き始めると
玲子先生、もう1枚!
私も!
原稿用紙が飛ぶように売れる。
ここに置きますから、ご自由に何枚でも!

「これ、止まらない!」
「これは書けるかも」
つぶやいたのはどうも全員の実感らしく、カルタもせず、
鉛筆の走る音のなかに子供たちを見た。
夫もこんな風に書いたのであろうか。

そうか、書けないのではなくて、
題次第で書けるものかもしれない。
夫の恩師の名前はまだ聞いていませんが、ありがとうございます。
私はこういう作文は気がつきませんで。
子どもたちに夫の恩師の発案だったってちゃんと言ってよかった。

終わって集めてみたら40分そこらで
7枚(1400字)は全員書いている。
(塾では公立高入試用に1枚の原稿用紙は200字、小学生は見た目に少ない、ので・・
 200字はいいので・・。こんなに書くの?400字だとうんざりするような気がして。)  

書き終わらないから家で書いてくる。断った子も7枚を越えていた。

「ふーっ、書き終わった。すげえ、疲れた!」
気持ちのいい疲れのようで。

集めてみれば、分厚い作文の束を見たのは塾をしていて初めてだ。

書くってどうでしたか?
結構、楽しい!
それはよろしゅうございました。

私が中3の春、5教科以外でも不得手なものに向き合おうと一念発起で
丁寧に勉強しよう、誓いを立てて・・
絵が苦手だったから・・・
その日の美術は校庭の写生。
今日こそ、違う自分に挑戦!奮起して
満開の桜は手に負えないので、次に面倒な体育館を選ぶことにした。
窓に割れ防止の柵があって、窓を分割している。一窓に14の小窓が出来る。
その一つ一つ、丁寧に描けば、美術センスはいらない。

絵心がないのだから、その分、雑にしない、上手に書こうと思わないで、丁寧に書く。
美術の先生がよく言っていた。それだ。

傍目にはたいした出来ではないが、小学生の頃から不得手に胡坐をかいて。
だから、少なくともそこを脱出すればいい、と
それまで苦心もしなかった絵とは違って、長方形を百も二百も描いているうち、
いつになく、いい気分だった。楽しかった。

美術の教師が私の絵を覗きに来た。
『なんだ、今日のお前はどうしたんだ』
からかい半分の笑いを残していった。

今日こそは!はりきった気持ちが蹴飛ばされたようで
どうせ、絵を丁寧に描こうとしたって、評価は皮肉の笑いか。

美術の先生が校庭を横切って遠ざかるのを確かめると
私は先生に背中を向けて
スケッチブックから体育館と二時間も格闘した絵を
びりっとはずすと、
画用紙の真ん中をビリ、あとは迷いもせず、びりびり、紙ふぶきにしてしまった。
勇気がなくて、空に放ることもできず、
もしや、教室のゴミ箱に捨てたら足がつくと思って
ポケットに一握りのこんもり山の紙ふぶきをしまった。
あとで、先生に叱られないように、足元の雑草を雑に急いで描いた。
発奮したこともわかってくれないし、努力が認められないと短絡してしまった。

次の週、集められたスケッチブックを一人ずつ先生が返した。
「どうして、体育館の絵がないんだ?」
「絵筆を洗うとき、水をこぼしてだめにしてしまって・・」
蚊のなくような声で弁解した。嘘は声が小さくなる。
「そうか。残念だな。お前は犬も豚も区別もない絵を描いていたのに、体育館の絵は
今までと違って、丁寧ないい絵だった。
お前の宝物だったのにな」

耳を疑った。
美術がいやだから美術の教師も嫌っていて、自分のいいかげんさは棚に上げて、
「なら、先生、はじめから褒めてくれればよかったのに!」
そんなことではない。
私が短気を起こしたからで、褒めてくれたのだ、それを皮肉と受け取った私は自業自得で
せっかくの絵は屑となった。

私の絵の完成を待って褒めるつもりだったのに、
「ごめんなさい、先生」
またもや、蚊のなくような声でやっとこさ、言うと
「いいさ、いいさ」

いい先生だなって、一生、忘れないぞ!
と思った。

18才のある日。
うちで働いていたトラックの運転手さんは鉄男と言う人で
友達のようにてっちゃんと呼んでいた。
家の近くでばったり出会った。

「あらー!てっちゃん、元気?」
「・・・・・・・・」
きょとんとしていたから、小さな頃から腕にぶら下がって遊んでもらっていたのに
水臭いと、力いっぱい、バンバン肩たたいて
「忘れたの・私のこと」
「忘れないよ」
「だよね!しばらく!元気そうね?」
「おう、俺は元気だ。お前も元気そうだな?」
「たまには遊びに来て!懐かしいよねー」
「そうだな。懐かしいな・・」
奥さんに頭のあがらい恐妻家だったから
「じゃあね。奥さんに逆らったら大変よね。がんばって!元気でね!」
「そうだな!お前も元気でな」

2,~3歩、歩き出して心にひっかりが・・言いようのない違和感があったが、思い切り手を振って
「バイバーイ!」
別れた。
「積極的になったな!お前は!」
背中に声がした。
「私は変わってないよー。バイバイ。てっちゃーん!」

それからだいぶ日がたって
「あーっ!違う。
あの人はてっちゃんじゃない。てっちゃんは冠婚葬祭以外、背広は着なかった。
あれは美術の先生!」
なんということか。一生忘れないなんて、聞いてあきれる。
卒業後、何十年たったわけじゃなくて、たった3年しかたっていないのだから
変わりようがないのに、間違いの元は
思い返せば顔が似ていたとしか思えないが・・・。
それにしたって、ね。

先生、
紙吹雪をポケットにしまったあの時はかわいいものを
ぞんざいな口吹雪はしまいようもない無礼・・でございました。

きっと
先生は私と別れてから
「おいつは誰かと間違えとる。犬も豚も一緒にしちゃいかん。よくよく観察しろ!
雑にするなとあれほど言ったのに」
気がつかれておりましょうね。

先生を間違えたのはごめんなすって!ですが、
「下手でも丁寧に描けば、夢中になれる」
残っておりますんです。大好きなてっちゃん先生!


最近、
絵を描いてみたいと思うことがある。

毎回、夜の親の会に参加のKさんに上手な絵を二枚頂いた。
もともと、お上手だったのだろうが、人様から頂いた絵にも関心がある。
描くということは気分がいいものだと思う。

天は二物を与えず、というけれど
天は一つだけなんてケチくさいことは言わないと思う。

子供の頃の好き!は上手に出来ることで、好きだからなお、精進して上手だが、
人には好きなことは
もう一つも、もう二つも、たくさん、あるように思う。

たくさんあっても
ご縁が必要で
楽しいと思う感じ方が必要で・・

一度、楽しいと感じたものは気分が良くて、
苦手なものでも結構好きになれて、
はなっから、向こうには追いやらない気がします。

一度味わった楽しさが身体に残っていたら
絵だって、歌だって、スポーツもそうなんじゃないかと思う。

夫が今でも小5の擬人法の作文・・忘れられないように
今日の作文が
『あの日は擬人法で何者かになった。書くって意外に楽しい』
記憶が、
記憶の隅っこで生きていったらいいです。

小6の作文の題をちょっと紹介
吾輩は飛竜である(架空の動物)・私はペンである・私は机である・吾輩はチャボである・私は鉛筆だ・
俺はマイク・・私は時計である・私はピアノである・私は鳥になりたい・

人間を一時、離れた12歳は
物になり、動物になり・・
なってしまえば、
お前はかわいそうに、人間はひどいよな、
慈しむ言葉で綴られたものばかりだった。

物を大切にしない、のではなく、その物になれば
いいのかもしれません。

小学生の恩師はどんな人?
夫が話した。

Y先生は当時、既婚の29歳、
夫はY先生の指導で、父親に買ってもらった題「うれしい刀」を書いた。
その作文は読売新聞作文コンクール県で銀賞受賞したという。
普通の授業で書いたものを先生が応募してくれたそうだ。

銀賞を取れてうれしかった作文がまた、賞をいただいた。

「擬人法の作文の時、Hちゃんはそれこそ何十枚も書いた。
みんな、いやだいやだと言うのに
それがものすごく(みんな)書くからね。
それが印象に残っているんだね。
そうそう、、
作文授業の時は
1時間目から6時間目まで作文だった。(丸一日作文を書いたのだ。)
隣の体育専門の先生も1時間目から6時間目まで・・・(体育ばっかり)

Y先生が作文書くって言ったら、作文の日じゃなくとも
午前中は全部、作文とかね・・

まだ、Y先生の住所、オレ、覚えているよ。
未だに覚えているよ。
(Y先生の住所を覚えているなんて、感動してしまった。いい先生だったんだ)

夫の12歳は戦後16年たっている。受けた教育は附属小で、
これからの日本の教育をよくしようと、
教師は信念を持って臨んだのだろうと思う。
国語でも体育でも
45分、小刻みの教育ではなく、工夫して勉強して
これぞ!って思うことをしたのだろうと思う。

附属だから堂々と試案をしてもよかった時代だろうか。

夫の話を聞いて、もう一度真似しようか・・思った。
いいこと教えてもらった。
冬期講習の国語の授業は2時間ぶっ通し、作文・・で。

Y先生、
私も子供たちと一緒に書いてみました。
私は樹齢400年の桜になりました。
楽しゅうございました。
私も未だにお世話になるとは、ご縁は深うございますね。

宮城教育大の限定224・小学校の先生の皆様、
子供たちにやってごらんなさいまし。


今北玲子

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2008年12月12日 19:47に投稿されたエントリーのページです。

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