夏から秋へ。
夏休みが終わって、9月初旬から中旬まで、
中学生から高校生まで定期試験が控えている。
この時期は、試験勉強を塾でする子どもたちで、
毎日1席もないほど教室はいっぱいになる。
子どもたちがあふれるとき、つんと何かがやってくる。
いや、
普段の日でもやってくる。
夫の冗談に子どもたちの笑い声がおきたとき、
こんにちは、って顔が教室に現れたとき、
玲子先生、トイレに行っていいですか、
テッシュもらっていいですか、
雨の日に傘がなくて
びしょぬれで教室に飛び込んで来たとき、はい、タオルって渡すとき、
鼻血、でたんですけど、心細い顔に
テッシュはどこ?って走るとき、
お菓子ありますか、
ありますよ、ヤッタって笑うとき、
何かがこみ上げる。
なんだろ、この気持ち。
以前、小学生が、玲子先生は泣き虫だからと言っていたし、
塾を開いて30余年、私の性分と思い、
それはそれでいいか、
そう思ってきたのですが、その日も勉強する満員の子どもたちの背中に
ふいに、こみあげて、
そのとき、
なんだろ、この気持ち、の
もやもやした霧の隙間から見えたものがあったりしまして。
子どもが生まれて、
世の中は一生懸命だけでは通用しなくて、
順風ばかりではなくて、
でもこの子のためなら一つや二つ、三つも四つも、我慢したりして、
思い通りに行かなかった崩れた破片を捨ててしまうか、
拾い集めて気を取り直すか、
小さな選択の中で
若い頃には思わなかった、大変さの中で生きていて、
勉強がすべてではないけれど、
子どもが生きていくためには
必要な学力もつけてやりたい。
そういう親の想いに、
生まれたあなたは、
母の胸に無心に大切に抱かれ、
泣いた笑った、歩いた走った、拍手するほど喜ばれ、
風邪ひとつでさえ、
早く治りますように、
案じられ、この子が丈夫に育ちますように、幸せになりますように、
大事に育てられ、
小学生になり、
中学生になり、
北剏舎の玄関を開け、階段を上り、
「塾に入りたいんですけど」
あなたが入塾したことに、
小学生が学校帰りにランドセルで、
中学生が暗い夜道を自転車で、
T君が笑い、H君が笑い、宿題をしてこなかったG君が
うつむき、
次の試験はもっと頑張りますとD君が夫に言い、
「よく勉強したなあ」
成績が上がって照れるG君、
笑顔や横顔や背中に、
ひとりひとりの子どもの気持ちに、
そういうものに、
私はこみあげるのかもしれない。
夏の終わり、
つんとやってくる涙の訳が
少しわかったような気がした。
10月
「先生、今日は休みます」
「どうした?かぜ?疲れた?」
「いえ、そういうわけじゃなくて」
「どうしたの」
「あのー、なんか、やる気が出ないというか、今日は休みたいんですけど」
「わかった。主人に伝えておく。休んでいいよ。今、授業中だからあとでかけるね」
風邪でもない、疲れたのでもない。
やる気がでない?
心配になって、
かけ直して、あれこれ聞いた。
わかったのは受験の不安のようだ。
「私も主人も、あなたの力は知っている、小学生から知っているから。
心配しなくていい。誰だって疲れることもあるし、
ゆっくり休んで、またあした、おいで」
そんなことを言った。
次の日、心配したH君が教室に入ってきた。
「昨日はありがとございました。少し気持ちが軽くなりました」
元気な顔だった。
自分を見つめたのだろう。
照れ屋だが誰にでも優しく、賢いH君だ。
あの感じ、こみあげる。
数年前にもあったなって、Mちゃんと重なった。
中3のMちゃんの日誌に
「受験が怖いです。溺れそうです。先生、助けて下さい。私を助けて下さい」
夢中で書いた。
「何度でも、何度でもあなたを助けます」
Mちゃんが来るたびに、
「今日も来たね」
「遅くまでよく頑張ったね」
「無理しないんだよ」
何度でも助けます、と言いながら、
私はなんの救命具も持っていなかった。
ただ、
気持ちだけの毎日だった。
今、教室にあの1行を書いたMちゃんがいるんです。
今年からアシスタントをしてくれている。
高校生クラスに3年間通い、早々と推薦合格を決めた。
「アシスタントをしてくれるか」
夫に言われて二つ返事で引き受けてくれた。
教室に来ればMちゃんは私に聞く。
「玲子先生、私、なにをしたらいいですか」
なにもできなかった私は
今、Mちゃんに助けられている。
この間、聞いてみた。
「あの日誌、覚えてる?」
「はい、覚えています」
かわいいMちゃんが笑って、
二人だけの秘密のようで、うれしかった。
あの感じ、またやってきた。
10月も終わり、、
休日の中3の補講で
その日は6時までなのに、おなかはすいていないと言って
数人の生徒が8時過ぎまで残って勉強していた。
夫が、帰宅して、
「中3になれば、
親も心配で、勉強しろって言うだろうし、
子どもも親に言われて、なんとかしたいと思うだろうし、
成績を上げたくて、空腹を忘れて、
1時から、8時過ぎまで残って、
勉強する姿を見ていると、
なんかさ、
いとおしいって気分になるな」
うん。
親の気持ちが切なくて、
あなたが生まれてここにいることが、
愛しくて。
T君のお母さんから模試を受けたい、と
連絡が入ったのは夏も終わりだった。
中1でやめて、2年が経っていた。
この界隈で会えば、
「いつでも待っています」
「そうできたらいいんですけど」
T君のお母さんも塾に戻ることを望んでくれていた。
もう会うこともないのだろうか。
ずっと気になっていて、
できたら会いたいと待っていたから、連絡は本当にうれしかった。
そして模試をきっかけに、塾に戻ることになった。
T君のお母さんが電話口で
「こんな時期に申し訳ありません」
「そんなことないです。それより、T君が戻ってきてくれるのがうれしくて」
「私も息子がまた塾に行くのがうれしくて」
互いに、うれしくて、を連発し、
なかなか会えなかった友達と再会したみたいに、
涙声になった。
「玲子先生、また、よろしくお願いします」
2年ぶりのT君が頭を下げて、言った。
去った愛しさが大きくなって戻ってきた。
また、泣きそうになって、
こちらこそ、という言葉で
こらえた。
卒業生にも想う。
ばったり、北仙台界隈で、
東京の同窓会、お正月に会うあなたに、
北剏舎に通ったな、片隅の思い出になっている卒業生のあなたにも、
皆、50の坂を、40の坂を登る社会人として、
父として、夫として、
母として、妻として、
がんばっている
あなたに想う。
いくつになっても
あなたが愛しくて。
つらくても頑張るんだよ。
でも倒れるまで頑張らなくていいんだからね。
胸の中で、
頭を撫でる人でありたし。
夫が、中学生に最近、よく言う。
「いいか、わからないことをほっておくからダメなんだ。
わからなかったらすぐ来い。いいな」
(質問が増えれば、成績は伸びる。
夫の受け売りですが)
これから大人になっていく、あなたが愛しくて。
夫は、男だから、
お前が、心配なんだ、
そんなことは言えないけれど。
11月に入った。
中2の授業が終わって、タイムカードを押す生徒が群がる。
カードを押し、ラックに戻し、
「ありがとございました」
「さよなら」
はいさよなら、またあしたね。
帰る声にこたえる。
教室のドアに中2の、A君、A君、Y君、S君、T君、
男子が5人並んだ。
どうした?
一瞬、何のために並んでいるのかわからなかった。
せいの、
小さなかけ声が聞こえて、
「ありがとうございましたっ!」
大きな声と共に5人が頭を下げた。
張り上げた声に、つんとしたあの感じどころではない。
どっとあふれた。
夫はまだ残っている生徒に教えていて、見ていない。
「おとうさん、こっち見て」
お願い、もう一回言って、と中2の5人に頼んだ。
じゃあ、やるか、って顔を見合わせて、
せいの、
「ありがとうございましたっ!!」
目を丸くした夫の顔が見えた。
開塾30余年、帰り間際に
こんな挨拶は初めて。
なんて気持ちの挨拶なんでしょ。ありがと。
礼を言った。
照れて帰る後ろ姿に、心の中で、
私も、
せいの、
ありがとうございましたっ!
玲子