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公立高校推薦入試、追っつけ私立入試が始まる。
15才の初めての挑戦は緊張と不安だと思う。
この時期になると
ピアノの先生・福井文彦先生の話を思い出す。
当時、東北大の教育学部の助教授で
のちに宮城教育大開校に伴い教授として呼ばれることになる。
11才から18才までピアノを教わるご縁をいただいた。
市内の中学・高校の校歌・子ども会の歌・合唱曲・東京オリンッピックの
「この日のために」の作曲家でもあった。

11才の時。レッスンの合間に先生は話し始めた。
自宅での二人だけのレッスンだった。
「ボクはねえ、父が医師だったから医学部を受験するつもりでいたんだ。
大学入試の前夜、ボクはピアノリサイタルに連れていってもらってね。
明日、入試だから親がボクに聴かせてやろうと思ったんだね。
そのピアノが忘れられなくてね、次の朝、医学部を受験しなかった。
できなかったんだ。行けなかったんだ。ピアノに魅せられて、虜になったんだ。
ボクはピアノを習ったこともないのに、受験の朝に両親に畳に手をついて
ピアノを習わせてください。それから毎日毎日手をついて頼んだよ。
1週間後、親が折れてね、1年間、ピアノを習って
音大に入学できたら許すって言われたんだ。
うれしくてね、ボクは本気でがんばったよ。1年後、ボクは
桐の朋の桐朋、桐朋というんだが、そこに合格したんだ。
途中からは国立音大に行って作曲を勉強したんだ。
そして今、君の前にボクはいる。
君はね、
自分がしてほしい時は頭をさげるんだ・君もいつか何か望む。
そういう時には
わかってほしい人には頭をさげるんだ。特に親には
何度でも何度でもね」
11才の私
福井先生は私を子ども扱いしなかった。
11才に大人同士の会話のような言葉を使った。
私は気のきいた言葉も思い浮かばず、胸の中は
なんだか、表わせない塊のようなものがこみ上げてきて、
涙があふれてきて
弾きもしないピアノの譜面をただ見つめて聞いた。
忘れてはいけない話だと思った。
あまりの感動で先生の言葉は一字一句大体その通りである。
きっと話の内容とともに私の感動を大きく占めたのは
自分のことを友達のように11才の子どもの私に
話してくれたうれしさだったと思う。

福井先生は毎日毎日、ピアノを習わせてください。
手をついて親に頭を下げ続けながら考えたのではなかろうか。
本当のところ、自分の真の願望かどうか、畳目見ながら
どうしても叶えてほしいのかどうか、思いつきかどうか、
どうかお願いします、くる日もくる日も言い続けながら、
己の気持ちと向き合っていたのではなかろうか。
お願いは相手に乞い、求めるだけではなく、
自分を見極めものではなかったろうか。

福井先生の話は忘れられず、中3の授業で
話すことがある。
でも、言わない年もある。
思うのはふとしたことで特に理由はない。
見えないのだが、この話を必要とする生徒がいるなって感じる時もある。

私は18才になって、母の希望の「芸は身をたすく」のアドバイスと
ピアノが好きというより
福井先生が好きで先生の大学の音楽科を受験することにしたが
もともと下手なピアノをやりくりするのは
しんどかった。
週に楽典やら聴音・ピアノと音楽を這い回っているようで
向きでないものはくたくたで、不合格はほっとした。

1番町の喫茶店で福井先生と会った。
「ボクがやろうとしている教育音楽はピアノの技量が問われるものではない。
音楽科とはいえ、学ぶ内容は違う。根底にあるのは教育なんだ。
あと1年やってみるか?そして4年間ボクのところでやってみるか?」
「・・・・・」
答えられなかった。
「お願いします」
のど元で出たり入ったりしたが、とうとう言えなかった。.
「いいんだ。即答できなけりゃこの話は終わりだ。
君の道を探せばいい」
喫茶店を出ると先生に深々と一礼して、福井先生は右に私は左に別れた。
2,3歩歩いて振り返って先生の後姿を見たら、
先生も視線を感じたか振り返り、にこっと笑って片手を挙げて
私からどんどん遠くなった。

太っちょでつるつる頭の福井先生は
すごいバリトンで歌ってくれる日もあれば
宿題の曲はレッスン最後には必ず先生の連弾となる。
気が抜けなかったが、私だけでなく、すべての弟子の横に立つと
作曲家の先生の即興の連弾は原曲がたちまち
福井文彦編曲にかわり、
一人で弾くより断然いい。音楽は興奮に違いないと思えた。
先生を頼りに弾いていると
わくわく!ピアノの単音も和音も異常に盛り上がり、
小学生がプロみたいな気になるほど
何倍も何倍も楽しくなるのだった。
晩翠草堂の奥にあるユネスコ会館の1階のフロアで
公開レッスンのようなものだったから、自分のレッスンを待っている子供たちは、
自分の番を待っている間、即興の先生のアレンジは生で
人のレッスンでも自分でも皆それを味わった。
それはそれは音楽は楽しいと思った。
私が中2の時、ピアノの発表会は小学生から芸大受験の高校生まで
全員、同じ曲だったことがある。誰も同じ曲とは知らなかった。
次々と自分と同じ曲を弾く、はじめは偶然かなと私も思った。
簡単な曲だけれど、なんだかややこしい曲だった。
福井先生はいたずらっ子のようだった。「先生、みんな同じ曲?」
小学生に質問されて
「ん?曲は同じでも違うんだよね。どうしてでしょう?」なんて笑っていた。

「今日の発表会は個性がよく出て実におもしろかった。芸大を受ける諸君、
小学生のピアノもよかったろ?同じ曲を弾くのは実におもしろい」

「あのね、自分と同じ考えの人は3人はいるんだ。ボクはこれぞというピアノ奏法を考えてね、
いずれ、発表しようとね。そしたらフランスの古本屋で見つけたんだよ、ボクと同じことを
考えて、もう本にしている人をね。オリジナリテイー、これが難しいんだ」

「ピアノばっかりやってもだめなんだよ、クラシックばかり聞いてもだめなんだ、
なんでもやるんだ。自分のいいと思う音楽を聴けばいいんだ。
感性を人に任せちゃだめなんだ」

あれもこれも思い出され、
あの後姿の距離なら追いかけて間に合う。
まだ、間に合う、まだ、まだ、
目で先生の姿を追うが、肝心の1歩は出なかった。
そのうち、先生は角を曲がり、見えなくなった。

お願いします。
場合によっては覚悟がいる。口にできるかどうかで、
自分を知る言葉にもなるのかもしれない。

「君の道を探したらいい」
さばさばと言い渡す先生の後姿は
堂々としていて私のことなどお構いなしに
実に楽しそうに空見たりして風格があって、
自分の道を歩いているようで後姿は素敵だった。

「君の道を探したらいい」
いたがき果物店の向かいの喫茶店を先生は右に折れて、
振り向いて私に手を振り、
国分町の四つ角を右に曲がってふいに見えなくなったあの瞬間から
なんと、未だに、探しているような気がするんです。先生!
今北玲子

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2008年2月 1日 01:03に投稿されたエントリーのページです。

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