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弥生尽 その1

北仙台駅となり、自宅のとなり、教室のはす向かいの叶やさんは
卒業生のY君が母と二人で切り盛りしている店で、
タクシーの運転手さんや乗降客、時にはグルメの取材人や
さっぱりとしたしょうゆ味のラーメンは沢山の人に愛された。
私も夕方の授業が遅くなって、
「叶やさんに行こう」
空腹の子どもたちを数え切れないほど助けてもらった。
店の横には大きなケヤキが時を構わず佇立している。
堂々たる木は、四囲の高層マンションにあっても
叶やさんを豊かに覆って大樹の風格に圧倒され、魅入られる。

今年になって
「3月の19日で店を閉めるんで・・」
叶やのY君が言った。
新年会でも話していたが、そうか・・

とうとう、3月19日、
夫は授業があるので、私と3人の子どもたちと店に入った。
さすが、同窓会会長のN君が家族できている。

誰にも言わなかったのだろう。まばらな客は今日で閉店とは知らなくて
黙々と食べている。東北人の気質だ。
言わず語らず、閉店の祭りはない。
Y君らしいな、Y君のおかあさんらしいな。
ご常連にも言わずに、今日で、店を閉める気なのだ。
言えば、名残惜しいフアンが押しかけたと思うのに。

明日、きてみれば、閉店したの・・がっくりする客があるだろうに。
心遣い、気遣い無用、普通に営業して普通に店を閉めるつもりなのだ。
店の最後の日も告げず、何もしない、誰にも迷惑はかけない覚悟なのだ。

そうと思いをはせても、
閑散としていても、誰も知らないとしても、閉店はどきどきする。
何がどうなることでもないのに、
食べてみればいつものこと。
今日でおしまいなんて、母と息子は淡々と営業しているのに
私だけ、感傷的になるのはよくない。いつものようにすればいい。
二人の母と息子がいつものようにと望んでいるなら、
私もいつものように主人の土産に餃子を頼んだ。

食べ終わった頃、
「玲子先生、これ」
銀のさらに餃子がこれでもかとイッパイ。
「すみません。こんなに、この皿、明日返しますね」

Y君のお母さんが
「いいの、返さなくとも。使って、玲子先生。
さあ!
この中で
この皿を見て、この店を思い出す人がこの餃子を持って下さい」
興味深そうにお母さんが私たちを笑って見回した。
末の息子が
「俺が・・」
私たちは震える手を引っ込めて
14歳の末の子の手に預けた。

その後、3月26日
叶やのY君と同級のT君と飲んだ。
「店は37年、先生、俺の親父知ってる?」
「もちろん、恰幅がよくて、格好良かった」
「そうっすよね」
「俺が小学生の頃、親父が忘れ物したから学校に来て、
やくざの親分みたいでこわいって言われて、
玲子先生、分かりますよね」
張り上げた声は、Y君はすでに大人の男だから泣きはしなかったが、
知り合った頃の中学生の声、そのものだった。

Y君のお母さんは美人で、人気の的の母と、職人肌のきっぷのいい、腕のある父と、
二人の間を
店の中でいったりきたり、そうやってY君は育ったのだ。
お父さんが亡くなって、長男のY君は一人になった母の店に戻ってきた。

なにをどう言っていいの。閉店の事実を、父と別れた息子の
Y君をいたわれもせず、黙って、きくだけだった。
「玲子先生にあげるから」
自分とおそろいの指輪を胸に下げたチャーンから
一つ取り出して、もらった。

Y君とT君と別れて、・・・

その夜は小寒くて、小走りになった。
車道に面した駐車場の奥、
30歩もあれば
自宅の勝手口。

空はどこもかしこもすっきりとした、まだ冬の空で、
となりの叶やさんの屋根がふと右に見えて、振り向いて、
「ごくろうさまね」
一言、ご慰労・・申し上げなければ・・

走るのか、立ち止まるのか、方針が決まらないままに、
不精して、走りながら振りむいたので、
私は中心を失った。
気がついたら、
私は駐車場のコンクリートに、
ひやり、意外な冷たさに気分が良くて、次に痛みを感じた時には
野球のスライデイングの格好で寝そべるように転んだ。

勝手口にたどり着いてみると、何が悲しいのか、寂しいのか、
ひざを抱えてうずくまって泣いてしまった。次男が
「寝な、おかあさん」
いつきたのか、物音に二階から降りてきていた。
ありがと、布団をひいてもらって。言う通りに布団に入った。

次の朝、
鏡を見て、自分の顔にうっとりしたことはないが、造作がよくないな、と
諦めることはあるが、長年、見慣れてしまっているから
顔見て、いまさら、ぎょっとしたことはない。
ところが、ぎょっとした。

左頬は真っ赤、口びるは腫れて、
いたるところ、痛みが走る。
家族全員、朝の私を見て、後ずさり、
「ぎょっ」という音が皆から聞こえる。
驚かせてしまった。すみません。

鏡を見て、カレンダーを見てあわてた。
あさっては卒業生の結婚式、どうしょう。

お祝いの席にこの顔じゃ、お断りしようか・
悩んでためらって、
決断がつかない。
せっかくの若い二人の披露宴。
私の不注意、
そんなことで欠席していいのか・
あさっての結婚式は卒業生だが、八木山時代のお隣さんの息子のK君の
大切な日なのだ。

それはできない。
見苦しくないようにしてください、事情を話して近くの整形外科にお願いしたが、
白い絆創膏のべったりは仕方ない。
そこに左目の眼帯をすれば傷は大分隠れた。
しかし、ブンと腫れた唇に絆創膏は貼れないから、目立つ。
夫はマスクをしたほうがいい、と言う。
それじゃ、右目しか出ていないことになる。
かえって包帯だらけで気色悪い。マスクはやめた。

ホテルの会場につくと、K君のご両親が飛んできた。
「どうしました?」
「ころんだんです」
「まあ」
でも、5分もすれば見てくれに慣れていただくもんですね。
欠席の後悔で過ごす一日を考えれば、包帯だらけでも来てよかった。

夫は頼まれたスピーチを本当に上手に話した。
私は
息子の大好きな兄みたいなK君の
晴れ姿、
やはり、案の定、スピーチの言葉は詰まった。
湿っぽい話はやめよう、でも、ふれないわけにはいかない。心に添うことにした。

「生きていれば、息子はどこにいてもK君のお祝いには駆けつけただろうと思って、
私はもう息子には何もしてやれなくて、
せめて、どんな顔でも、息子の代わりに出席しようと思いまして。
K君、今日は、私が代わりにきました。お祝いの席に涙は禁物なのに、ごめんなさい」
K君は可愛い花嫁のそばで下を向いて、うなづいて、頭を下げているのが見えた。

同じテーブルには当時の借家の大家さん夫婦、
「お久しぶり、今北さん。
思いだすわねえ・・タケちゃんマン・・」

息子のあどけない、7歳までを知っているご夫婦は仲が良くて何も変わっていない、
当時の息子の愛称をすらすらと・・・

そうだった。

長女の臨月、大きいおなかで
八木山に引越し、双方の亡き両親が孫の誕生と成長を喜んで訪ねてくれたり、小袁治師匠が
東北放送の仕事のたびに泊まってくれて、
3人で飲んでビールが切れるとよろずやさんに走って買いに行ったり、
ひがな、おかあさーん、一心に私をめがけてくる二人の子どもを抱きしめたり、おんぶしたり、
私たちは八木山のてっぺんの明るい空の下で楽しく暮らしたんだ。


叶やさんもひっそりと閉店したのではない。
37年、北仙台の空の下で皆に愛され、幸せの満腹食堂だった。

息子の大好きなK君が、ご両親が、
私たち夫婦が、
わが子、悲しくて思い出すのを承知の上で
それでも
「是非、いらしてください、息子が一番、来てほしい人なんです」
招くのも気を使っただろう。
無傷な人はいない。

「お母さんはしばらく、外に出ないほうがいい」
3人の子どもたちに止められたが、
向かいの八百屋さんはいいだろう。
そしたら、
「私も何年か前、ころんでっしゃ・・」
ご主人が言った。
八百屋さんを出ると
「あらあ、私もこの間、ころんだよ」
卒業生のお母さんが言った。
みんな、ころんでいるんだ。
何かを思って、中心を失ったのだろうか。

外傷は日がたてば治る。
アハハのハ
私が笑うと、子どもたちも塾生も
「ころんだね、派手に」
面白そうに笑う。

本人が笑えば、大したことでもなくなる。
「こけちゃいました・・・」
夢のオリンッピックでマラソン選手がその一言で笑ったら、
見ているこちらの気持ちが軽くなったことを思い出した。
今北玲子


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2008年4月 3日 21:07に投稿されたエントリーのページです。

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