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2007年11月 アーカイブ

2007年11月27日

消えたブログに再会

今日の午前中、教室のパソコンに向かっていた主人が
「玲子さん、早く、、これ見て」
画面を見ると、5日前に削除してしまったブログではござんせんか!
「ほら、これも、これも」
オオ!オオーッ!
次々に二度と会えないと思っていたブログが目に飛び込んできた。
「あなたたちはどこいるの?」

「小袁治師匠のお蔭だよ。よかったな」
師匠が私のブログを見て
主人に「朗報!」と教えてくれた。
言う通りに
師匠のホームページから北剏舎にアクセスすると・・・削除する前のブログは健在。
感激してしまった。
ネットの空の花火と消えて二度と目にすることはできないと思っていた。

師匠のお人柄に改めて感謝して思った。
芸を大切に精進する方であり、人との出会い、ご縁も
本当に大切にされる方だ。
師匠のブログは毎日更新されている。
師匠が発信すれば読む人は毎日つながっている気がすると思う。
お忙しいのになかなかできることではない。
更に、北剏舎だけではない、いろんな方に師匠のホームページからアクセスできるようになっている。
沢山のご縁を丁寧に手入れし、結びなおし、広げ続ける師匠の
見えない手のお蔭で非情にも削除した私の小さなブログさえ、拾って救って頂いた。

ネットの仕組みは理解不能だが、救われたブログたちが言っている気がした。
「この道を辿ったら誰一人欠けずに、皆、無事に師匠に保護されました」

やくたいもないブログとはいえ、不肖ながら身内同然とも思え、
再会の喜びに自然と顔がほころぶ。
あわや散る由の画面の文字だって笑ってる。
この先、決して会うことがないとは辛いものです。
でも、会えた。
つくねんとした昨日までの私はふわっとなった。
重畳千万・感謝感激、柳家小袁治師匠ありがとうございました。
今北玲子

2007年11月23日

昨夜・ブログの事故

昨夜、ブログを書いて作業終了。思い出したことがあって、すぐに又開いてみると
半年分ほど、ごっそりきれいになくなってiいる。
エエツー!どこ行った?
削除されている。私か?
私しかいない。
あれこれ、ヘルプを見ながら復元を試みたがダメ。
ああ・・まさかの坂はいつどこにあるのかわかりません。

今日、卒業生のネットに詳しい今や私たちのパソコンの先生・T君に連絡。
「どうにかならない?」
「やってみますけど」
「お願いします。いくつでもいいからブログを救って下さい!」
大事な友達か、私自身か、すっかりわが子のように情が移っていて
深くて広いネットの中から救出を願った。

じきに連絡が来た。
「無理ですね。自動的にバックアップが入るんですが、削除の後でした」

自分のブログが消えても誰も困らないけれど、
実害のない被害だけれど、
誰もせいでもない・私が削除したのだけれど、
ブログを書いていた時の「もう一人の私」[ブログに書いた皆さん」に未練。

これまでもあった。「加害者は私」
財布を3回落としたし、めがねを踏んでしまったし、コンタクトを水道で流してしまったし、
風呂場でも流したし、お金をトイレに流したし、近づきすぎたストーブの前でセーターを焦がしたし、
娘が行方不明・いなくなってオロオロ、ネットワークの集会場に大事な娘を忘れたのは私だったし、コンロでまゆを焼いたし、
中学生の時、スカートをはかずに学校に行って笑われたし、高校生にはホックをちゃんと留めていなかったからホームでスカート落としたし、二度あることは三度ある・結婚式でもドレスが落ちてきたし、
居酒屋でトイレの戸が開かなくて助けを求めたら自分でロックしていたし、
リレーの練習で前を見ずに走り出したらポールに頭ぶつけて3針も縫ったし、
出産の時、頭の上のバーを押し上げていきむのに逆のことして引き上げて「鉄棒じゃないのよ・懸垂しないで、もうすぐ生まれるのに」看護婦さんに笑われたし、好きな人を後輩に紹介して感謝されたし、
長年、私という加害者が私にいるのだ。
誰もせいにもできない空しい気持ちが今日一日、ゆらゆらした。
仕方がないね。悪いのは私。

夕食は鍋にしよう。台所に立ちながらも思い出す。
「ブログさん、ごめんね」詫びたりして野菜を切る。
沸騰した鍋の中で野菜と鳥団子が煮えてきた。火を止めなきゃ・思いながらぼんやり。

煮立つ鍋の音・グズグズ・グズグズ・チパ・ジバ・パチ・バチ・パチ・
ふとパチパチ・パチーン、花火の音に聞えた。
そうだ。
削除のクリックで、10件のブログの文字は画面の向こうで、
夜空の花火みたいにパッ・パーンとはじけて、
美しく、キラキラ光って咲いたような気がした。
こうなったら、ブログが華やかに
ネットの空の花火になったと思うほうが楽しい。
じゃあ、
今までのことだって、私が仕掛けた「花火」ってことにすればいいか。
今北玲子

2007年11月10日

オンブズマン支援企画10 By 小袁治師匠

11月8日
市民オンブズマン主催「今年も笑っていただきます」。
十月に20周年の独演会を終えたばかりの師匠に再会.

初音家左吉さんに笑い、柳家紫文さんの粋な三味線と不思議な笑い。
さて、最後の演目。
芝浜が始まった。
引き込まれ、重ねた手に力が入って、
高座に釘付け。
芝浜、クライマックスの女房の台詞。
師匠は女房になりきり、泣いた。
右隣の女性が泣いている。左隣の女性も泣いていた。
私も泣いてしまった。

ふと浮かんだ。
毎年、春になると桜の開花を待って小学生に話す話。
上野動物園の象さん。「かわいそうなぞう」土家由岐雄・作
戦争で犠牲にされたいたいけな大きな象の話を子供達の心に覚えて欲しい。
戦争は二度としてはいけない。

私は春に決まって読むことにしていた。でも、この話をすると泣くまいと誓うが、泣いてしまう。
ある年の春。正直な小学生が言った。
「玲子先生が泣くともっと悲しくなる。だからよけいに泣いちゃった」

悪いと思った。泣かずに話せばよかった。
泣かないために練習をした。でも、いざ、話はじめると泣いてしまう。
私の話術では伝わらない。
5年ほど前、象さんの話はやめた。

師匠の高座の涙を見て思った。すごい!さすが!何もかもこちらに伝わる。
誰かを思う涙だってなんだろう。
心がふるえるから泣くのだ。
師匠のように素晴らしくできなくても下手でもいいか。
来春、また、話してみようかな。思わぬ元気を頂いた。

師匠の芝浜はあったかかった。
ごめんなさい。泣いてしまうんだ。お人柄の優しさは長年おつきあいでわかる。
師匠の声がしそうだ。
今、目の前で泣いているのは小袁治師匠ではない。
亭主を案ずる優しい女房。私の知っている師匠はどこかに行って
もはや、女房がそこにいるとしか思えなかった。
師匠の話芸!涙に女房が降りてきて、
戦災復興記念館・満席の客は人情に泣きました。
気持ちのいい涙はあるもんです。
今北玲子

2007年11月 8日

今日という日

さっき、深夜12時少し前、夫が帰宅。
玄米食べるかたわらで、私は黙々とビールを飲む。
9時半過ぎまで、夫と一緒だったが、一日の改めての報告は帰宅後と決めている。。
子どもたちに痛いかゆいはなし。
私に不具合はなし。
あなたに異常なし。
授業にやってきた子どもたち・親から連絡ないから無事に帰宅。
さよなら、先生。今日も丁寧に教えたつもりだが、その効果はあったか、なかったか。
教えて下さいと願う。

さて、今日のどこを探っても、互いに報告すべきことなし。
ご縁の皆、息災。

無言の深夜の夕食はいい。何もないのだもの。
「こんな日を幸福というのよね」
「うん」
別して婚姻ゆえのきっと同志のあなた、同感ありがたく存じます。
「尋(と)めゆきて、涙さしぐみ・・」(涙がこぼれそうなる)

尋ねゆきて(尋ねもとめて)の含みはカールブッセの原詩にはないという。
尋ね求める、訳者が日本人にあうと思ったのなら、その誘いは名訳だな。
今北玲子

2007年11月 2日

ひめゆり 今日は11月2日

連日、テロ特措法の審議が続いている。
証人喚問の守屋元事務次官はストレスの溜まった当時の心境は正直に述べるが、肝心の給油量や
随意契約などなどの真実は何も明らかにならなかった。
11月1日、特措法の期限切れで自衛隊がインド洋から撤収する。

「ひめゆり」ドキュメント映画を思い出す。

7月27日・日記
柴田昌平監督の22人のひめゆり学徒の証言を綴った映画が弁護士会館で上映するとあって
塾生を連れて行った。
夏期講習を一日休みにした。

2時間10分の証言。
終わって、家に帰ったら尋常ではなく身体が重い。
重労働したわけではない。誰に気遣いをしたわけではない。
多くの証言が身体に残った。
蹂躙されて、抵抗も防御もできない。
証言は消えない・悲しみだった。

でも、清らjかな感じもした。
証言の皆さんの瞳だ。
その時、なにが起こったか。語るに苦しいのに
皆、優しい瞳をこちらに向けていた。
伝えたい人、その視線の先は若者であったろうか。
怖がらせてはならない。かといって事実を曲げてはならない。
伝えるべきものは伝える。
「悲惨な中を生きてきたの。だから事実を話す」
耳を覆う事実なのに
瞳が優しい。
「起きたことなの。今まで話せなかったの」
胸の中でつぶやいている気がした。

ひめゆり 副題
「忘れたいことを話してくれてありがとう」
まさにそうだった。

私は久しぶりに亡くなった母を見た。
学徒動員で私の母は多賀城の軍需工場に10代を過ごした。アルフアベットも知らない。勉強は全くしなかった。配電ばかりよくわかっていた母だった。
自分たちよりひどい状況に置かれたひめゆりの方々を戦後、知りえたのだろう。
戦後、映画にもなり、私が美しい女優たちで全国配給された映画に興味を持って「なあに、ひめゆりって」答えてもらえなかった。「映画の話だからね」「じゃあ、本当はちがうの?お母さん」
母は聞えない振りして答えなかった。
父はシベリアに抑留、捕虜となり、テレビ画面にハバロスクと地名が映し出されると戦争体験を話したがった。酔うと「ハバロスク、ハバロスク、ラララ、ハバロスク」戦友と歌った歌を歌い、子どもの前でもよく泣いた。
母は「小さい子に恐ろしいことは言わないで。怖がらせないで。大人になってから言って」
父は「今のうちに言っておかないと又、戦争が起きる」二人は平行線だった。子どもながらにどちらが正しいわけではないと思った。
母はひめゆりの皆さんと同時代を生きたからこそ、代弁はできなかったろう。今になって無言の母の横顔の意味を知る。母は学徒動員の生活がいやで、友達と抜け出した。東北本線の線路伝いに歩けば、家に帰れる、暗い線路を父母恋しさに一晩中歩いたという。汽車の音がすれば、松島のトンネルの避難のくぼみに隠れ、歩き通し帰り着いた。
ひめゆり宮城喜久子さんの証言・「お母さんにもう一度会いたい」

塾生は最後まで見続けた。
皆さんの記憶を残す息遣いがあるから、
悲惨で残酷な事実も見つめられた。
平和を心から望む瞳に見つめられるから、
想像しただけで苦しくなるような血の匂いも
同級生の無残な最期も、
見つめられた。

「大きな傷を負った人の精神科医療の
通底ともいえるものがこの映画にはある。」

精神科医のコメントが映画のちらしにあった。

戦争のない今の世なのに、大きな傷を背負う人はいる。
消えぬ悲しみは
深く生きた人の言葉によって心の深い場所で抱かれる。
今北玲子

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