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2008年12月 アーカイブ

2008年12月 5日

Sさん

2日前にSさんが突然いらした。

Sさん親子と初めて会ったのは3年前。
「浪人したので、この塾で勉強を面倒見てもらいたいのですが・・」

これまでも浪人生はいたが、
「浪人したのはどうしてですか?」

Sさんは
「この子がどうしても入りたい高校がありまして・・
中学校の先生からは反対されて・・
でも、親としてできる限りのことをしたいと思って・・」

Sさんの長女Iちゃんと知り合った。
15歳の浪人はきつかったと思う。

賢いIちゃんだった。
作文を書かせれば、情感があり、心根の優しい少女で
役に立てればと願った。

しかし、あんなに勉強したのに、
塾にも休まず通って、点数を上げたのに
結果は焦がれて願った高校に蹴られた。

発表のあと、自宅にIちゃんを呼んだ。
なんと言えばいいのか・・でも、この1年、志望校に挑戦したIちゃんをなんとか励ましたかった。
努力を褒めたかった。
「あなたを合格させない高校はたいしたことないです」

日ごろ、夫が
「もし、不合格なら、砂でもかけてこい」
同感だったから、受け売りを加工して言った。

志望校を妥協しなかった15歳を過年度生と冷遇したものやら
わからないが、
Iちゃんは泣きもせず、
私に気を使って笑った。

Sさんは妹を早々と入塾させたが途中でやめて、今、その妹は中3になる。

「やっと、下の子は目覚めたんですが、勉強してるんですが、志望校が高くて・・」

どう親として姉の二の舞にならないように、妹にアドバイスしたらいいのか、
私たちをたずねて来られたようだった。

志望校の偏差値もある。挑戦したい、妹の気持ちもある。
姉と同じつらい思いをさせたくない、親心もある。

きっと、退塾したのに私たちと会うのは遠慮だったと思う。

妹の成績を考えると入りたい高校をすんなり、うんとは言えず、
どうしたらいいかということだったと思う。

「このまま、年が明けて私立が終わるまで、(志望校は)それからでもいいのでは?」

Sさんが突然泣き出した。
「勝手にやめたのに、先生の顔を見たら・・すみません」

声をあげて泣き出した。

15歳の長女の浪人1年をどうやってSさんは暮らしたのだろうか。
毎日、胸を痛め、だからこそ、妹は・・
親なら、そこはあぶないからやめさせよう・・
言いたいけれど、妹がせっかく勉強し始めたのに言いにくい。

中3の妹に意見すれば反発されるようだ。
その気持ちもわかる。いいことです。志望校をどうでもいいとは思っていないのですものね。

でも、Sさん、
嬉しかったのは悩んでどこの誰に聞いてもらおうか?
私たち夫婦を
思い出していただいたことです。
まっしぐらに、ここまで来られたことです。

「どれほどご心配か?」
昨今、浪人する中学生がいないのに・・
中学校の先生になぜ、浪人させるのか?さんざん、言われ、それでも
Iちゃんの盾になったけれど、
下の妹までそんな思いをさせたくない。
苦しくて、阻止したくて何かいい方法はないのか・・
矢もたてもたまらずに、塾にきたのではなかろうか。

子どもの涙や苦しい顔を見るのはいやですよね。
危ない橋は渡らせたくない・・15だもの。

でも、Sさん、
Iちゃんの浪人は親の失敗でも、
ましてIちゃんの失敗でもない。
果たして浪人しても志望通りにいかなかったけれど、
Iちゃんの・・プライドと希望に
親御さんがつきあって
結果オーライなんてのは手にしなかったけれど
Iちゃんの納得の1年に間違いはないと思います。

姉の辛さを妹に味あわせたくない・・親ですから・・家族ですから・・
臆病になりますよね。
でも、すでに
Sさんは見守ると半ば覚悟されて、私たちに会いにきたのではなかろうか。

Sさんの涙は
私たちに遠慮だった涙と思うが、
当時、苦しかった胸のうち・・うんと我慢して、それが少し吹き出ると
しまいこんだものは、びりびりと破られて
流れ出たものはあったかい親が子を思う音・・・みたいに
聞こえた。

Sさん、私も同じです。

でも行きたいと走るのならしばらく止めずに行かせましょか。
いよいよ、このままじゃ無理というときには「だめ!」両手広げて
言いましょか。

それでも行くと言って
ころんだら、
「怪我はない?大丈夫?起きられる?」
抱いて涙ふきましょか・

Sさん、一緒に思い出しませんか?
ハイハイ、アンヨ、ぐらぐらの覚束ない足取りを追って
一歩でも歩けば拍手して
ころんだら、思い切り抱いてね・・

何より、歩いたってことで心がイッパイになって
やりたいように、食べたいように、歩きたいように・・
見つめた頃のこと、
思いだしませんか?
(・・・不躾ではございますが)
私も思い出します。そうします。
15才って見かけは大人だけれど
わかっているようでわからなくて
わからないようでいてわかっている。

あれが片付いたと思ったら、こちらに心配の種が・・・
家族全員、身も心も恙ない日はあるようでないものですね。
私も同じです。

山道を登っていた親子。
70になる息子に90の母が
「お前は大丈夫か?歩けるか?」言ったそうな。
こんな話もあるよ。
屋根にはしごをかけてのぼる70の息子に90の母が
「危ないから、母ちゃんがのぼる」言ったそうな。

親とはね・・
そういうものだからね・・・

「どっちもどっちだね」あの時、小学生だったから
笑ったけれど
母の遠い声に今なら、そうだねって、言える。

Sさん、
たずねていただいて、お聞かせいただいて
お目にかかれて大変嬉しゅうございました。

今北玲子



  

2008年12月 2日

あの日から・・

11月22日の高1のトークは
中3の気持ちに響くものがあったのだろう。
あの日を境に授業以外にも、塾で勉強する人が
一人増え、二人増え、ほとんどの中3が毎日教室に来るようになった。

中3は誰も何も言わないが、
個人面談で中3のご父兄の何人か、
「あの日から吹っ切れたようです」
「あの日から勉強しています」

高1の言葉は
励みにも薬にも
力にもやる気にもなったのだろう。

中3の自習の教室はしんとしているが、
あなたの右にも左にも同級生がいる。
「ああーっ、勉強はやだな」
でも、隣の背中が
前の背中が目に入り、
鉛筆を走らせていたりすれば
ページをめくっていたりすれば
「さっ、私もやろうっと」
思うね、きっと。

中3の息子が帰ってきて
「今日は教室、混んでいたね」

あの日の
高1も試験勉強に来ていて教室は満杯・・
「混んでる」ってことは
人がいるので淋しくはない・
私も夫もひとり、横を通るのがやっと。
ごちゃごちゃ混みあうって
一人じゃないってことだよね。

こうやって3月まで
みんなで一緒に行こ!

今北玲子

2008年12月27日

授業もいろいろだろうが・・・

ずっと,
もやもやっとしていた「ぶたといた教室」
映画になって,
数多くの賞も受けていて。
見たいとは思わなかったが、
違和感はどこから来るものやら・・・

この映画は
小学6年生に命を教えた,
いい映画なのだろうが、
なんだか、もやもやと、賛否両論のどちらとも言えず、
誰かに聞いてみることも、夫に聞いてみることもできずに
いて、・・
今日、美容院で読んだ、作家・梨木香歩のエッセイにすっきりした。
氏は
ぶたではないが、10数年前に
ある小学校でニワトリを飼って
普段何気なく食べているものは
「いのち」なのだという授業に「違和感」を感じていた。

その後、アフリカに行った時、
案内人が「チキンを買うから」車を止めると
羽をばたつかせる生きたニワトリを売る現地の人に囲まれた。
翌日
「いのち」を迎い入れるのになんのためらいもなかった。
走り回っているニワトリを解体し、食することがいかにも自然で必然だった。

以下抜粋、引用
(小学校で行われた「いのちの授業」に戻るけど、
パック詰めのトリ肉があふれている社会で
わざわざペットのように
飼っていたニワトリを殺して食べるというのは
やはり「不自然」だったのだ。
「愛するペットといえども皆が今日の糧を得るためにどうしても食べなければならない」
という訳ではなかった。
今にして思えば
どうしても教師の勇み足だったように思う。
「生きるため」もしくは、
「これがおいしいのだ、是非食べたい」
という体全体から生じてくる欲求を「食べこなしてやる」
という迫力でもって満たすのならまだ、分かる気がする。
・・・・・略
そうではなく
「教育のため」などという大義名分の理屈から成った、
独りよがりの目的が
「いのち」を犠牲にするのにどう考えても弱く、
不適切だったのだ。
あの頃、感じていた違和感の正体はこれだったのである。
「教育のため」なら食肉処理センターへ見学に行けばよかった。
・・・略
教育のため、お国のため、と簡単に言葉は入れ替わっていく。
「場が要求する自然」は
ごく普通に 
ニワトリが庭から食卓へ上がるような
「自然」であり、
昂揚した場が
ヒステリックに要求する無意味な犠牲とは違う)

読んで、すとんと納得した。

数10年前の「いのちの授業」のニワトリは食べられた・・・という。
ニワトリを飼っていた小学生は最初ずっと泣いていたが、最後には食べたのだそうだ。

「いのち」の授業は大切な教育であろうが、
愛護を育ててから、さあ、この「いのち」の大切さを
皆でいただきましょう・・・
情を切り刻むというものだろう。
切り刻まれたから、その小学生は抵抗し、泣いたのではなかったろうか。
涙にいのちの有難さはあったのだろうか。
「ぶたのいた教室」
実話の皆さんは
15年前の小学生を思い出し、
映画を見て号泣したという。
(号泣の意味を知らないのになんとも言えないが、涙があふれたことには違いないのだろう)

私の小学生の3年だったろうか。
雑種の犬に
4匹も産まれて、貰い手がなくて
母犬しか飼えないから、二人で川に流してきなさい。
母が言った。

いやだと言ったか、素直にうんと言ったか、後者だったと思う。
母には逆らえない。
妹と二人で
スーパーの茶色い袋にモクモクと生きている子犬を
渡され、
断れず、
言うとおり、
川の橋から
何も考えず、それをしなかったら叱られるから
袋を放した。

それはよくあることではあった。
プールのない頃、
夏休みの川の
遊泳禁止のひも1本向こうには
子猫も子犬も流れてくる、太った豚もぷかぷか流れてくる、
動物は川に流れる、いつものことで、
仕方がないことと知っていたから、
茶袋を落とした。

落としたら、帰ればいいものを
落ちても袋が動いている形、
袋がとぷんと沈むまで、
川の流れがそれを飲んでしまうのを見つめた。

妹に
「帰るか」
小さい妹は素直に
「うん」
どういうわけか、私は振り返った。
なんということか、沈んだはずなのに
ぷかっと袋が浮いて、
かすかに命は動いていて、
助けようにも、それは自分たちにはできなくて
考えないようにして、
今度こそ、
「帰ろう」
空ばかり見て歩いた。

「・・・飼えないんだから、無理して飼ったらかわいそうだから」
母の言葉を頼りに
歩いた。そのうち、
「走ろう」
妹と二人で
家を目指して思い切り走った。

母が
人間は勝手で残酷だからね、
私たちにそういう授業をしたとは思えない。

川に捨てる前日、
生まれたうちの1匹が庭の池でおぼれた。
母の心はあの時、決まったと思う。
「このまま飼ってもしょうがない。
番犬は母犬だけでいい。」
母の顔は迷いもなく、隙のない横顔だった。

いのちのいの字もない、
こちらの事情だけれど
決めた母も捨てた私も果ては一緒、同じだった。

夏休みに
ぶたの流れる川で
泳ぎ、
ぶたの屍体に子供たちは
見えなくなるまで見た挙句、
「汚ねえー・気持ち悪りーい」
男の子たちは笑ってその川にもぐった。

子供は言わなきゃ、教えなきゃ
日常のいのちのありがたみはわからないのではない。
笑いながらでも、海に還る家畜の弱さを感じた。

今も残るは
生かしてあげられなかった・・。
川面に
しきりとしていた子犬の鳴き声がぷつっと消えた瞬間・・
胸が絞られるって・・・感じが残っている。

それでも、平気な顔して
「捨ててきたよ、お母さん」
「ごくろうさん」
母の笑顔を見て
言うことを聞いてよかったと思ったのだ。

それは近所でもよくある話だった。
「俺も捨てに行った」
川捨てはよくある話であっちこっちであった。
私だけ、悲しかったのではなかった。
「場の自然」があれば
何も教えなくとも子供は受け入れられる。

母犬は下を向いていた。
薄目開けて
たまに
くーんと泣くと
「かわいそうにね」
母は鍋いっぱいに煮込んだ骨を振舞った。
母だってつらかったのだ。
大人も子供も犬だって猫だって
別れは悲しいものだって、思った。

「いのち」の、そんな授業があるとしたら
ぶたにニワトリに羊に犬に猫に
楽しく遊んだら分かる。

「お前たちは私たちと違うのね。いつか別れるのよね」
一匹を愛せば分かる。

大人の目論見でぶたやニワトリを飼わせて
食べさせなくとも、食べるかどうか議論しなくとも
苦労しなくとも分かる。

大人だって
「いのち」・・そう簡単に分かるわけじゃないけど、
子供は馬鹿じゃない・・・
わざわざ、授業しなくとも
映画になんぞしなくとも・・・

今北玲子

2008年12月12日

擬人法

11月下旬から12月中旬。
個人面談月間は沢山のご父兄と会う。
心配事、嬉しかった事、短い時間だが、親御さんの気持ちを聞かせていただくのは
貴重な時間である。
しかし、お忙しい皆さんを教室まで呼びつけるのは筋違いというものだが、
自宅訪問されても気詰まりだろうし、教室までお越しいただくのは有難いことであるが、
お月謝頂きながらご足労とは実に恐縮至極。
すみません。

面談で意外に多いのは
「作文が書けなくて・・」
今日もYちゃんのお母さんが弟のことで心配そうだ。
横から夫が
「ボクは小学生のとき、担任が国語に力を入れた先生で
その後、その先生は大学の学長までした先生で・・すごい先生だったんですが・・
漢字と作文が多かったですね。中でも、ずっと、あれは忘れられないなあ・・」
「なあに?」
「擬人法の作文。最初はわからなかったけれど
隣の女の子が、 私、魚になる!そしたら 、俺は犬・俺は鳥・
俺も書けたなあ」
夫が小学5年生のその日は擬人法の作文だったのだ。

いい先生だなって思った。
小学5年生の記憶は
教室のざわついた雰囲気や夢中で書いた自分、隣の子の様子も鮮やかに覚えていた。
「私も真似しようかな?」
Yちゃんのお母さんもうん、うん、という顔だったから
夫の恩師をご縁と頂戴し、
早速、その日の小学6年生に、夫がお世話になった先生と同じ授業をしてみようと思った。

小6の授業。
なぜ、今日作文を書くのか。
訳を話した。
夫の忘れられない作文の話、それを私も真似してみようと思った事。そのきっかけを作ったのは
小6のMちゃんの「あなたのお母さんなの」
ちゃんと話さないと。
大人も子供もないしね。

それに、なにせ、私の発案ではないのだから、もし、好評であれば、手柄にしたら夫の恩師に
申し訳ない。

「ええっつー!又、作文?」
「玲子先生、この間の・・冬がやってきた・・の作文書いたのに・・
消しゴムもらってないのに、またー!じゃあ、今日書いたら、二つだよ」

はい、そうでした。
前回は
「さあ、冬がやってきました。あなたの冬はどんな冬?」
200字の作文を書いたのに
作文書いたらおもしろ消しゴムあげるって、毎回、約束をしていたのにね。
差し上げませんでした。今日は差し上げます。
小学生は作文を書いたら消しゴムなのです。
私は小さなものが好きで、ハンバーガー、ケーキ、かわいい消しゴムを
作文書いたらあげているのです。
作文は自分の気持ちを書きなさい、それって、
塾の名を借りて子供たちの気持ちを
無料で読ませてもらうのだから、
気持ちばかり・・・お礼をしないと。


「すみませんでしたね、はい、今日は二つ、差し上げます」
「やったー」

「擬人法の作文って?」
「ものでも動物でもなんだって人に見たてるの。
あなたの好きなものに
おなんなさい。
それになったら、その目で周りを見るの。
日本のとても有名な作家も、
このやり方で面白い作品があるのよね」

「知ってる!吾が輩は猫である・・」
即座にN君が言った。
「読んだの?」
「おととい、読んだ」

では初めのほうだけ、皆さんに紹介します。読むね。

『吾輩は猫である。名前はまだない。
どこで生まれたか、見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所で
ニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。吾輩はここで始めて(字が違いますよね、漱石は誤字をいかんともしない作家、たまには造語も・・でありますが、才能は誤字脱字ではなさそうです)
人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生というもので・・・」

気がつくと
私の声にあわせてN君が朗読している。
「暗記している?N君」
「なんとなく」

小学生は児童文学を読んだ方がいいとは思わない。
「あなたはすごいです」
褒めずにはいられない。

さて、
「なんだ、そういうこと!俺は何になろうかな・・」

原稿用紙を渡すと前回の「冬がやってきた」
の時はしばらく、空を見ていた子も
もう書けない、いいや、こんなもんで・・マス目に字を埋めるだけの子も
題は『私は○○である』○○は自由です。
黒板に書くと
皆、すぐに書き出した。
「吾が輩は○○である。それでもいいですか?」
いいですよ。

夏目漱石先生は子供たちに火をつけました。
書き始めると
玲子先生、もう1枚!
私も!
原稿用紙が飛ぶように売れる。
ここに置きますから、ご自由に何枚でも!

「これ、止まらない!」
「これは書けるかも」
つぶやいたのはどうも全員の実感らしく、カルタもせず、
鉛筆の走る音のなかに子供たちを見た。
夫もこんな風に書いたのであろうか。

そうか、書けないのではなくて、
題次第で書けるものかもしれない。
夫の恩師の名前はまだ聞いていませんが、ありがとうございます。
私はこういう作文は気がつきませんで。
子どもたちに夫の恩師の発案だったってちゃんと言ってよかった。

終わって集めてみたら40分そこらで
7枚(1400字)は全員書いている。
(塾では公立高入試用に1枚の原稿用紙は200字、小学生は見た目に少ない、ので・・
 200字はいいので・・。こんなに書くの?400字だとうんざりするような気がして。)  

書き終わらないから家で書いてくる。断った子も7枚を越えていた。

「ふーっ、書き終わった。すげえ、疲れた!」
気持ちのいい疲れのようで。

集めてみれば、分厚い作文の束を見たのは塾をしていて初めてだ。

書くってどうでしたか?
結構、楽しい!
それはよろしゅうございました。

私が中3の春、5教科以外でも不得手なものに向き合おうと一念発起で
丁寧に勉強しよう、誓いを立てて・・
絵が苦手だったから・・・
その日の美術は校庭の写生。
今日こそ、違う自分に挑戦!奮起して
満開の桜は手に負えないので、次に面倒な体育館を選ぶことにした。
窓に割れ防止の柵があって、窓を分割している。一窓に14の小窓が出来る。
その一つ一つ、丁寧に描けば、美術センスはいらない。

絵心がないのだから、その分、雑にしない、上手に書こうと思わないで、丁寧に書く。
美術の先生がよく言っていた。それだ。

傍目にはたいした出来ではないが、小学生の頃から不得手に胡坐をかいて。
だから、少なくともそこを脱出すればいい、と
それまで苦心もしなかった絵とは違って、長方形を百も二百も描いているうち、
いつになく、いい気分だった。楽しかった。

美術の教師が私の絵を覗きに来た。
『なんだ、今日のお前はどうしたんだ』
からかい半分の笑いを残していった。

今日こそは!はりきった気持ちが蹴飛ばされたようで
どうせ、絵を丁寧に描こうとしたって、評価は皮肉の笑いか。

美術の先生が校庭を横切って遠ざかるのを確かめると
私は先生に背中を向けて
スケッチブックから体育館と二時間も格闘した絵を
びりっとはずすと、
画用紙の真ん中をビリ、あとは迷いもせず、びりびり、紙ふぶきにしてしまった。
勇気がなくて、空に放ることもできず、
もしや、教室のゴミ箱に捨てたら足がつくと思って
ポケットに一握りのこんもり山の紙ふぶきをしまった。
あとで、先生に叱られないように、足元の雑草を雑に急いで描いた。
発奮したこともわかってくれないし、努力が認められないと短絡してしまった。

次の週、集められたスケッチブックを一人ずつ先生が返した。
「どうして、体育館の絵がないんだ?」
「絵筆を洗うとき、水をこぼしてだめにしてしまって・・」
蚊のなくような声で弁解した。嘘は声が小さくなる。
「そうか。残念だな。お前は犬も豚も区別もない絵を描いていたのに、体育館の絵は
今までと違って、丁寧ないい絵だった。
お前の宝物だったのにな」

耳を疑った。
美術がいやだから美術の教師も嫌っていて、自分のいいかげんさは棚に上げて、
「なら、先生、はじめから褒めてくれればよかったのに!」
そんなことではない。
私が短気を起こしたからで、褒めてくれたのだ、それを皮肉と受け取った私は自業自得で
せっかくの絵は屑となった。

私の絵の完成を待って褒めるつもりだったのに、
「ごめんなさい、先生」
またもや、蚊のなくような声でやっとこさ、言うと
「いいさ、いいさ」

いい先生だなって、一生、忘れないぞ!
と思った。

18才のある日。
うちで働いていたトラックの運転手さんは鉄男と言う人で
友達のようにてっちゃんと呼んでいた。
家の近くでばったり出会った。

「あらー!てっちゃん、元気?」
「・・・・・・・・」
きょとんとしていたから、小さな頃から腕にぶら下がって遊んでもらっていたのに
水臭いと、力いっぱい、バンバン肩たたいて
「忘れたの・私のこと」
「忘れないよ」
「だよね!しばらく!元気そうね?」
「おう、俺は元気だ。お前も元気そうだな?」
「たまには遊びに来て!懐かしいよねー」
「そうだな。懐かしいな・・」
奥さんに頭のあがらい恐妻家だったから
「じゃあね。奥さんに逆らったら大変よね。がんばって!元気でね!」
「そうだな!お前も元気でな」

2,~3歩、歩き出して心にひっかりが・・言いようのない違和感があったが、思い切り手を振って
「バイバーイ!」
別れた。
「積極的になったな!お前は!」
背中に声がした。
「私は変わってないよー。バイバイ。てっちゃーん!」

それからだいぶ日がたって
「あーっ!違う。
あの人はてっちゃんじゃない。てっちゃんは冠婚葬祭以外、背広は着なかった。
あれは美術の先生!」
なんということか。一生忘れないなんて、聞いてあきれる。
卒業後、何十年たったわけじゃなくて、たった3年しかたっていないのだから
変わりようがないのに、間違いの元は
思い返せば顔が似ていたとしか思えないが・・・。
それにしたって、ね。

先生、
紙吹雪をポケットにしまったあの時はかわいいものを
ぞんざいな口吹雪はしまいようもない無礼・・でございました。

きっと
先生は私と別れてから
「おいつは誰かと間違えとる。犬も豚も一緒にしちゃいかん。よくよく観察しろ!
雑にするなとあれほど言ったのに」
気がつかれておりましょうね。

先生を間違えたのはごめんなすって!ですが、
「下手でも丁寧に描けば、夢中になれる」
残っておりますんです。大好きなてっちゃん先生!


最近、
絵を描いてみたいと思うことがある。

毎回、夜の親の会に参加のKさんに上手な絵を二枚頂いた。
もともと、お上手だったのだろうが、人様から頂いた絵にも関心がある。
描くということは気分がいいものだと思う。

天は二物を与えず、というけれど
天は一つだけなんてケチくさいことは言わないと思う。

子供の頃の好き!は上手に出来ることで、好きだからなお、精進して上手だが、
人には好きなことは
もう一つも、もう二つも、たくさん、あるように思う。

たくさんあっても
ご縁が必要で
楽しいと思う感じ方が必要で・・

一度、楽しいと感じたものは気分が良くて、
苦手なものでも結構好きになれて、
はなっから、向こうには追いやらない気がします。

一度味わった楽しさが身体に残っていたら
絵だって、歌だって、スポーツもそうなんじゃないかと思う。

夫が今でも小5の擬人法の作文・・忘れられないように
今日の作文が
『あの日は擬人法で何者かになった。書くって意外に楽しい』
記憶が、
記憶の隅っこで生きていったらいいです。

小6の作文の題をちょっと紹介
吾輩は飛竜である(架空の動物)・私はペンである・私は机である・吾輩はチャボである・私は鉛筆だ・
俺はマイク・・私は時計である・私はピアノである・私は鳥になりたい・

人間を一時、離れた12歳は
物になり、動物になり・・
なってしまえば、
お前はかわいそうに、人間はひどいよな、
慈しむ言葉で綴られたものばかりだった。

物を大切にしない、のではなく、その物になれば
いいのかもしれません。

小学生の恩師はどんな人?
夫が話した。

Y先生は当時、既婚の29歳、
夫はY先生の指導で、父親に買ってもらった題「うれしい刀」を書いた。
その作文は読売新聞作文コンクール県で銀賞受賞したという。
普通の授業で書いたものを先生が応募してくれたそうだ。

銀賞を取れてうれしかった作文がまた、賞をいただいた。

「擬人法の作文の時、Hちゃんはそれこそ何十枚も書いた。
みんな、いやだいやだと言うのに
それがものすごく(みんな)書くからね。
それが印象に残っているんだね。
そうそう、、
作文授業の時は
1時間目から6時間目まで作文だった。(丸一日作文を書いたのだ。)
隣の体育専門の先生も1時間目から6時間目まで・・・(体育ばっかり)

Y先生が作文書くって言ったら、作文の日じゃなくとも
午前中は全部、作文とかね・・

まだ、Y先生の住所、オレ、覚えているよ。
未だに覚えているよ。
(Y先生の住所を覚えているなんて、感動してしまった。いい先生だったんだ)

夫の12歳は戦後16年たっている。受けた教育は附属小で、
これからの日本の教育をよくしようと、
教師は信念を持って臨んだのだろうと思う。
国語でも体育でも
45分、小刻みの教育ではなく、工夫して勉強して
これぞ!って思うことをしたのだろうと思う。

附属だから堂々と試案をしてもよかった時代だろうか。

夫の話を聞いて、もう一度真似しようか・・思った。
いいこと教えてもらった。
冬期講習の国語の授業は2時間ぶっ通し、作文・・で。

Y先生、
私も子供たちと一緒に書いてみました。
私は樹齢400年の桜になりました。
楽しゅうございました。
私も未だにお世話になるとは、ご縁は深うございますね。

宮城教育大の限定224・小学校の先生の皆様、
子供たちにやってごらんなさいまし。


今北玲子

2008年12月31日

皆様へ

塾生の皆様、卒業生の皆様、
ふとしたことでつながった皆様、
胸中を画面の向こうで
「そうだったの・・・」
皆さんに
聞いていただいたように思います。

ありがとう存じました。
今北玲子

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