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2008年2月 アーカイブ

2008年2月14日

バレンタイン

塾に入ろうとしたら、背中で呼び止められた。
「玲子先生。ああここで会えてよかった。」
T君とAちゃんのお母さん。
「玲子先生に!これ」
まあ、チョコですか!
生まれて初めてバレンタインに男性でもないのにチョコいただいた。

私はご父兄に何かいただくと恐縮する。お月謝いただいているのに
申し訳なくて。
贈答ご辞退申し上げます、と暮らしたいと思っていて、
だいぶだいぶ前のことだが、いただいたらお返しするほど凝り固まった律儀を通していた。
それがある日、
大家さんの長男の結婚式でのこと。
司会は小袁治師匠で楽しく品のある名司会を右耳で聞き、
もう片方左耳で隣の席の大家さんの話を聞いていた。
「玲子先生、俺はさ、勉強は教えられなかったけど、息子に教えたことがあんのっしゃ。」
「何ですか?」
「人様がくれるものはもらわい。でも、決してくれろ、だの、欲しいだのって言うな!ってね」
なんだかすとんと私の律儀が落ちた。

以後、私は大家さんの教えに従うことにした。
今日もありがたく、
日ごろの気持ちとおっしゃるKさんのお母さんのあたたかいお気持ちをいただくことにした。
今日はバレンタイン、心のどこかでお菓子屋の陰謀、乗るまいと警戒していたが、
誰かにもらえば嬉しいし、ひとつももらわないのも寂しい.
受験で疲れている中3にあげたいな。
くれ!とは言わない中3にはあげよう。男子でけでなく女の子にだってあげよう。

「私の気持ちチョコ」
両手伸ばして「すいません、アザーッス」
喜ぶ笑顔はこちらも嬉しい。
「人様にいただいたら、もらわい!
決して・くれ・とは言うな」
渡世の仁義は
バレンタインの男心と似ている?・・・

中3の皆さん、
あとわずかの高校入試は別です・
大丈夫かな?不安はやめて
ほしい、合格ほしい!
ストレートに遠慮なく
これだけを一心に願いなさいね。

努力したし、いい子です。
何かほしいとは言いませんから
中3のこの子達に合格をお願いします。
祈る。
祈りは一人より二人、二人より三人、
人数が多いと大きな祈りになって届く・・・大好きな大津の義母に教えてもらった。
今北玲子

2008年2月13日

ミックスジュース

定期試験前で中学生が大勢いる。普段はいない中学生と小学生の授業が
バッテイングして、「お兄さんお姉さん方が必死に勉強しているから静かにね!」
「はい」
「はい、がってんだあ!」小学生のKクン。小4は国語、小5は算数。
中学生の試験勉強のために教室を二分した。小5はわきまえて静かに
勉強しているが、小4は・・・・
静かに問題を解きなさいって言っているのに漢字の問題に頭を抱えた。
「これ、知っているんだ。絶対知っている。玲子先生・
待ってて!今、思い出すからうーん・・・
何で出てこないんだんだよー!」

カンケイ・・・漢字で書きなさい。

そんなの関係ない・そんなの関係ない・玲子先生やってみてもいい?
コジマヨシオやってもいい?
どうぞ!
そんなの関係ない・そんなの関係ない・
ヘタコイター!

だめだ。出てこない。

中学生は、くすくす、くっくっ、笑いをこらえはじめた。
「やっぱり辞書貸して。」
「どうぞ」
「オレ、塾に入って辞書好きになったもんね。ねえ、玲子先生・
オレ、辞書好きだもんね。頭よくなるし」
いい子だねえ、Kクン!頭なでてもいい?
「だめ!なでていいのは一人だけだから」
「そうか(お母さんか)ごめんね、
じゃあ、もうTちゃんは今日の予定が終わっているから
Tちゃんの頭をなでてもいい?」
「いいよ、玲子先生」
Kクン
「少しだけならいいよ」
Tちゃん
「結局。なでてほしいじゃん」
「ちがうよ、ちょっとって言ってんだろ?」
いい子です、Kクン、Tちゃん
「辞書取ってくるよ」
Kクンは席を立ったら歩けばいいのに、走って自分のかばんにひっかって転んだ。
痛えなあ、痛え、
玲子先生、怪我した!見て!
同じ学年のTちゃん
「この間の古い傷、玲子先生に見せてんじゃないよ、あんた、いつだって
傷だらけじゃん」
「ばれたか!」

中学生のくすくす、くっくっ、
忍び笑いは伝染し、広がる。


K君ははたと気がついた。自分の両足見てあれっ?
ブルーと白の片方ずつの靴下。
「玲子先生、いいよね、この組み合わせ。靴下に間違いないでしょ?」
「いいよ、赤でも白でもピンクでもブルーでも、両方同じ色じゃなくとも
靴下に変わりはない、いいよ」
「だよね・・いいよね」

Kクン
「オレ、まじめに辞書とお笑いを見ようっと。関係ないは漢字の勉強になるもんね。
玲子先生、書けるようにするから」
そうね・

そこにいた教室半分の中学生は腹に手を押さえ、声を殺して笑っている。
玲子先生・笑ってすみません。
だって、おかしすぎるよ、あいつ、おもしれえよ、
マジ!(ストレス解消)・マジ!おもしれえ・
小学生っておもしれえ。

小学生と中学生
同じ空間にいると
忘れかけた小学生の幼さと陽気、
いずれ、自分もあんな風になるのか予想図・
塾はミックス空間。

私はミックスジュースが好きです。
果物のみんなの味がして
楽しい味がする。
今北玲子

2008年2月12日

踏み切りで

犬の散歩は
朝は夫、夕方三男、深夜次男と決まっている。
今日は次男が留守なので11時、私が散歩に出かけた。
私のコースはツタヤ経由、仙山線の踏み切りを越えて、
北仙台駅の駐輪場から梅田川のほとりのいく一直線の小道にきたら
犬の綱をはずす。気まま勝手に行きたい所に犬が走るのを見ながら、
夜空を見、
頃あい見計らって、口笛を吹く。
たいてい、口笛を合図に遠くまで自由な散歩を楽しんだ犬は忠実に
帰ってくる。
梅田川付近は街灯だけが頼りで物騒で怖いのでたまにだが、
深夜の誰もいない運動場になるから
犬は喜んでいるように見える。
今夜は久しぶりにそのコースをとろうと思って踏み切りを渡ろうとしたら、
深夜11時、
カンカンカン、踏み切りの遮断機がおりた。
遮断機の音と共に山形方面から列車が北仙台駅に向かって滑り込んできた。
夜行列車は闇から私の前に躍り出て、窓には明るい光があって
ふと心奪われて踏み切りから確実にホームに入る緩やかでも迫力ある走行に見惚れた。

私の足元で用足しをしていた犬をまるで見ていなかった。見るつもりもなくて
なるべく犬の排泄は目を逸らす癖が私にはある。
踏み切りを列車がガタンゴーッガタンゴーッ通り過ぎて静まったので、つい歩き出したら
「おい、おい、取らないのか」
踏み切り前で背丈の大きい男性が私を大声できつく叱った。
私は糞を置き去りにしていたのだ。
こんな奴がいるからだめなんだ、そう言いたげな男性は
私を見て怒っている。
そういう時って、ものすごく、いろんなこと考える。

私は
はなっから糞など取る気もない列車に見惚れる振りして
確信犯で見つけられたからこそこそ始末する
とんでもない飼い主と見られただろうか。
ポケットに用意はありました、信じてくれるだろうか。

北仙台駅前で塾をしているのがあとでわかったら
あんな不道徳な人間が塾の教師だなんて、
子どもを教育できるのかって
言いふらすだろうか?
あるいは、お前を知っているぞ、塾やってるんだろ?
聞いて呆れる!
非常識を吹聴されるだろうか・
心狭き妄想が・・妄想を誘発して
さかしい了見に見舞われた。

私は声に驚いてポケットから用意していたテッシュを出して犬の糞の始末をしたが
注意された男性には何一つ言えなかった。
「すいませーん。汽車見ててぼーっとしちゃって」
あっけらかーんと言える体質が私にあったらいいが、
ああ、ユーモアも臨機応変もなくて
その方に
頭だけ下げて、なおざりの一礼して、
糞を始末するなんて、自分で自分にがっかりする。
しょげてしまって
「ごめん、怒られちゃった、今夜は帰っていい?帰ろうか」
犬にだけ弁解して
梅田川の自由な走りも即座にやめにして帰り足・・。

いくつになっても怒られるのは怖い。
今もまだ、大きな男性の影が焼きついてどきっとする。
あの方に聞こえるように「ごめんなさい、今拾うところです」
まっさきに非を認めて言えばよかったんだ。

叱ってくれたあの方を追いかけて
「すみませんねえ、聞いていただけますか?
あのですね、私の息子が・・お母さん、犬の用足しは見ないでね。ほんとだよ。
言いますから、私は息子にそんなことはない、飼い主はちゃんと見ないと言い返しましたらね、
動物は見られるのはいやなんだよ。
用を足す時も死ぬ時もね・・・10歳の息子は危篤の難病の犬をただ見つめただけなのに
お宅の息子さんは犬の気持ちがわかるかもしれない、なんて感謝されましてね、
息子が行くとえさも食べるし、そのうち、立ち、歩き、走れるれるようになりましてね、
ランという老犬でしたが、生き返ったんです。
20歳の時には人を寄せ付けず、すぐに噛み付く大型犬とゴルフ場で会いまして
誰も近づけない狂犬に近づいて、水も食事もやってね、一人ぼっちのその犬が
かわいそうと毎日車飛ばして通いましてねえ、
それなら家で飼おう、と私が言ったんですけど、人を信じられなくなっているから
難しい、あいつはそれを望んでいない、
一人がいい、って言っているんだ。そんなことわかる息子で・・
何より犬が大好きで、犬と会話できる不思議な息子でして・・、
犬の用を足す時は見ないでよ。お母さん。終わってから拾って。
息子は
私に
本気で、お母さんが犬の散歩する時は「汽車でもみていればいいんだよ。
ほかを見ていればいいんだ・・」
私に真剣に「ずっと、お願い」なんて言いましたんです・・
それを忘れられない私も馬鹿ですが、
馬鹿な息子でも、息子のさもない大切な遺言でして・・・忘れられませんのです・・・
糞を置き去りにするなんて毛頭なくて、
見ていただけますか、オーバーの右ポケットにテイッシュ10枚持っているんです」
わかってもらえただろうか。

塾の子どもたちには「ごめんなさい」って言いなさいね。
まず、言いなさいね・・

私だってすぐには言えない子どもだったのに、
過ぎてしまえば人には言える説教・・
「ごめんなさいと思っていたのよね。
そう思っていたけど、言えなくて、何か思っていたのよね、そのこと教えて・・」
心がけたいな。

自分が怒られるとよくわかる。
怒られるとはなんと自分が不甲斐ない、入りたい穴にでも・・・
どうしようもない気持ち、

叱責される行動には怠惰、不勉強、非常識、劣等感、言い訳、うそ、
叱られても当然な中に
何かしら生きてきた歴史が
理由が
その人に
その子に
あると思う。

人の行動には理由にも説得にもなりようもない根拠や土壌があって
なかなか説明できない奥がある。
子どもたちの行動を見逃していいはずないが
「そうだったの」
聞いてもらえたら、話せたら
ひざを抱いて顔をうずめることは
ひとつ減るような気もする。

踏み切りで、
オイオイ!取らないのか!待てよ!180センチもあろうか、体格のいい男性は
オレが言わずに誰が言う、正義感の塊で道行く人を振り返らす大声で、
脅かされたようで、そんなこと思っても見ないのに
私は一気に罪人のようで、怖かった。女・子ども・容赦なくて・怖かった。

たとえば、ちょっぴり笑って
「忘れ物ですよ」
時に
怒るも叱るも、相手見て
物も言いようって事
あったらいいです。
Reiko

2008年2月 1日

お願いします

公立高校推薦入試、追っつけ私立入試が始まる。
15才の初めての挑戦は緊張と不安だと思う。
この時期になると
ピアノの先生・福井文彦先生の話を思い出す。
当時、東北大の教育学部の助教授で
のちに宮城教育大開校に伴い教授として呼ばれることになる。
11才から18才までピアノを教わるご縁をいただいた。
市内の中学・高校の校歌・子ども会の歌・合唱曲・東京オリンッピックの
「この日のために」の作曲家でもあった。

11才の時。レッスンの合間に先生は話し始めた。
自宅での二人だけのレッスンだった。
「ボクはねえ、父が医師だったから医学部を受験するつもりでいたんだ。
大学入試の前夜、ボクはピアノリサイタルに連れていってもらってね。
明日、入試だから親がボクに聴かせてやろうと思ったんだね。
そのピアノが忘れられなくてね、次の朝、医学部を受験しなかった。
できなかったんだ。行けなかったんだ。ピアノに魅せられて、虜になったんだ。
ボクはピアノを習ったこともないのに、受験の朝に両親に畳に手をついて
ピアノを習わせてください。それから毎日毎日手をついて頼んだよ。
1週間後、親が折れてね、1年間、ピアノを習って
音大に入学できたら許すって言われたんだ。
うれしくてね、ボクは本気でがんばったよ。1年後、ボクは
桐の朋の桐朋、桐朋というんだが、そこに合格したんだ。
途中からは国立音大に行って作曲を勉強したんだ。
そして今、君の前にボクはいる。
君はね、
自分がしてほしい時は頭をさげるんだ・君もいつか何か望む。
そういう時には
わかってほしい人には頭をさげるんだ。特に親には
何度でも何度でもね」
11才の私
福井先生は私を子ども扱いしなかった。
11才に大人同士の会話のような言葉を使った。
私は気のきいた言葉も思い浮かばず、胸の中は
なんだか、表わせない塊のようなものがこみ上げてきて、
涙があふれてきて
弾きもしないピアノの譜面をただ見つめて聞いた。
忘れてはいけない話だと思った。
あまりの感動で先生の言葉は一字一句大体その通りである。
きっと話の内容とともに私の感動を大きく占めたのは
自分のことを友達のように11才の子どもの私に
話してくれたうれしさだったと思う。

福井先生は毎日毎日、ピアノを習わせてください。
手をついて親に頭を下げ続けながら考えたのではなかろうか。
本当のところ、自分の真の願望かどうか、畳目見ながら
どうしても叶えてほしいのかどうか、思いつきかどうか、
どうかお願いします、くる日もくる日も言い続けながら、
己の気持ちと向き合っていたのではなかろうか。
お願いは相手に乞い、求めるだけではなく、
自分を見極めものではなかったろうか。

福井先生の話は忘れられず、中3の授業で
話すことがある。
でも、言わない年もある。
思うのはふとしたことで特に理由はない。
見えないのだが、この話を必要とする生徒がいるなって感じる時もある。

私は18才になって、母の希望の「芸は身をたすく」のアドバイスと
ピアノが好きというより
福井先生が好きで先生の大学の音楽科を受験することにしたが
もともと下手なピアノをやりくりするのは
しんどかった。
週に楽典やら聴音・ピアノと音楽を這い回っているようで
向きでないものはくたくたで、不合格はほっとした。

1番町の喫茶店で福井先生と会った。
「ボクがやろうとしている教育音楽はピアノの技量が問われるものではない。
音楽科とはいえ、学ぶ内容は違う。根底にあるのは教育なんだ。
あと1年やってみるか?そして4年間ボクのところでやってみるか?」
「・・・・・」
答えられなかった。
「お願いします」
のど元で出たり入ったりしたが、とうとう言えなかった。.
「いいんだ。即答できなけりゃこの話は終わりだ。
君の道を探せばいい」
喫茶店を出ると先生に深々と一礼して、福井先生は右に私は左に別れた。
2,3歩歩いて振り返って先生の後姿を見たら、
先生も視線を感じたか振り返り、にこっと笑って片手を挙げて
私からどんどん遠くなった。

太っちょでつるつる頭の福井先生は
すごいバリトンで歌ってくれる日もあれば
宿題の曲はレッスン最後には必ず先生の連弾となる。
気が抜けなかったが、私だけでなく、すべての弟子の横に立つと
作曲家の先生の即興の連弾は原曲がたちまち
福井文彦編曲にかわり、
一人で弾くより断然いい。音楽は興奮に違いないと思えた。
先生を頼りに弾いていると
わくわく!ピアノの単音も和音も異常に盛り上がり、
小学生がプロみたいな気になるほど
何倍も何倍も楽しくなるのだった。
晩翠草堂の奥にあるユネスコ会館の1階のフロアで
公開レッスンのようなものだったから、自分のレッスンを待っている子供たちは、
自分の番を待っている間、即興の先生のアレンジは生で
人のレッスンでも自分でも皆それを味わった。
それはそれは音楽は楽しいと思った。
私が中2の時、ピアノの発表会は小学生から芸大受験の高校生まで
全員、同じ曲だったことがある。誰も同じ曲とは知らなかった。
次々と自分と同じ曲を弾く、はじめは偶然かなと私も思った。
簡単な曲だけれど、なんだかややこしい曲だった。
福井先生はいたずらっ子のようだった。「先生、みんな同じ曲?」
小学生に質問されて
「ん?曲は同じでも違うんだよね。どうしてでしょう?」なんて笑っていた。

「今日の発表会は個性がよく出て実におもしろかった。芸大を受ける諸君、
小学生のピアノもよかったろ?同じ曲を弾くのは実におもしろい」

「あのね、自分と同じ考えの人は3人はいるんだ。ボクはこれぞというピアノ奏法を考えてね、
いずれ、発表しようとね。そしたらフランスの古本屋で見つけたんだよ、ボクと同じことを
考えて、もう本にしている人をね。オリジナリテイー、これが難しいんだ」

「ピアノばっかりやってもだめなんだよ、クラシックばかり聞いてもだめなんだ、
なんでもやるんだ。自分のいいと思う音楽を聴けばいいんだ。
感性を人に任せちゃだめなんだ」

あれもこれも思い出され、
あの後姿の距離なら追いかけて間に合う。
まだ、間に合う、まだ、まだ、
目で先生の姿を追うが、肝心の1歩は出なかった。
そのうち、先生は角を曲がり、見えなくなった。

お願いします。
場合によっては覚悟がいる。口にできるかどうかで、
自分を知る言葉にもなるのかもしれない。

「君の道を探したらいい」
さばさばと言い渡す先生の後姿は
堂々としていて私のことなどお構いなしに
実に楽しそうに空見たりして風格があって、
自分の道を歩いているようで後姿は素敵だった。

「君の道を探したらいい」
いたがき果物店の向かいの喫茶店を先生は右に折れて、
振り向いて私に手を振り、
国分町の四つ角を右に曲がってふいに見えなくなったあの瞬間から
なんと、未だに、探しているような気がするんです。先生!
今北玲子

2008年2月19日

ごんぎつね

小4が学校で習っているごんぎつね。
プリントも一通り終わって新美南吉のほかの作品を読んであげようかなって思った。
黒板に作品名を書いた。リクエストの多いものを読んであげるね。
ヤッター・読んでくれる?いいよ・

のら犬
和太郎さんと牛
花のき村と盗人たち
ごんごろ鐘
牛をつないだ椿の木

さあ、どれがいい?
言いながら・・・・・

もしや
学校の授業で
「ごんぎつねのほかに新美南吉の本を読んだことがある人?」
なんて先生の質問に
塾の小4の5人は手を挙げる。
「のら犬知ってます」「和太郎さんと牛、知ってます」
学校の先生が
「へえ、よく知っているわねえ。いつ読んだの?」
「ええまあ」
なんてごまかしたりして
この子達が学校の先生にほめられたらうれしいな。
隣の子に
「本当はね、塾の先生に読んでもらったんだ」
きっと隣の子がひそひそと聞く。「塾ってどこに行ってるの?」
「ほくそうしゃ」

いつそんな質問が学校でされるか、わかりもしないのに
どれか早く子どもたちに読んで聞かせたくなった。
「塾に行ってよかった。学校でほめられた」
それはいい・
月謝もらっているもの・喜ばれたらいいな・
リクエストの多い、
牛をつないだ椿の木
読み始めた。

牛を椿の木につないで、清水にのどを潤し、休んでいる間に
牛は椿の葉を食べてしまう。のどを潤すためには清水まで歩かなければならない。
しかし、牛が葉を食べつくすほど清水は遠い。ああ、皆がのどを潤す井戸が道すがらにほしい。
明治時代の南吉の郷里を舞台にした作品で
井戸を掘る車夫の海蔵さんのまごころがついに地主を動かし、皆の井戸を掘った後、
海蔵さんは戦争へ・・ついに帰ってこなかった。
海蔵さんは「いさましく日露戦争で花と散ったのです。しかし、海蔵さんのしたことはいまでも生きています。椿の木かげに清水はいまもこんこんとわき、道に疲れた人びとは、のどをうるおしげんきをとりもどし、また道をすすんでいくのであります」(牛をつないだ椿の木)から

いい話!
10分経過、まだ途中なのに子どもたちはねむそうでつまらなそう。
「おもしろくない?」聞くと、
「うん。つまんない」
「やめようか?」
「かるたの方がいい」
かるたはことわざ、四字熟語、八百屋さん魚屋さん、教科書には
出てこない大人の漢字かるた。
学校でほめられるはずの予定の授業はあっさりとやめにしなければならなかった。

玲子先生・
この話は言葉もわからないし、,
筋も面倒くさくてわからない・・
人力車、まんじゅう笠、遍路さん、油菓子(広辞苑にものっていない、どんな菓子?)
木魚、念仏講、、羅宇屋(らうや)の富さん・・・(どんな商売?)」
小4では時代についていけなかった。わかんなあい・

新美南吉1913年生まれ、16才、もう童話を書き始めたんだね。
でも、30才で病気で亡くなったのよね。
30才は若いよ。
(スマップの中居くんもキムタクも
ほとんど30すぎだもの。)
これはわかる?
うん・
かわいそう、そんな若いのにね?
しんと新美南吉の人生を思っていた。

私は小学生のとき、新美南吉も宮沢賢治も読まなかった。
一等好きな読み物は母の「主婦の友」の
ドクトルチエコの人生相談、だった。
児童書といわれるものは読まなかった。
子ども扱いしないでください、と反発していた。
主婦の友は取り上げられ、母のいない時に盗み読みした。
大人になってからだ。読む時期が逆さで、今は人生相談は
読まないが、童話は好きだ。
宮沢賢治のよだかの星、20才、雨に負けす風にも負けず、最後まで読んだのは
22才、注文の多い料理店の細部までよく読んだのは30才
ごんぎつねは?
そうだ、八杉先生が仙台にきた年、21年前、34才。
(八杉晴実・
東京・練馬・私塾・東進会主宰
子どもたちと関わり、著書も多い。その実績は地域の信頼も厚く、
マスコミは八杉先生に何かあればコメントをほしがった。
不登校、学力遅れを支援する民間の団体「家族ネットワーク」を全国に呼びかけ
影響力も強く感覚も鋭い呼びかけに、全国の学校の教師、塾経営者、新聞記者、出版社
八杉先生に賛同した。
先生は何より、子どもの声が聞こえる人であった。
戦争を見つめ、戦後、世の中にはこれぞひとつの思想も教育もないほど
ころころ変わることを体感し、
その雑とした子ども時代を忘れなかったのだと思う。あなた任せはいやだって
いってらした。
澄んだ感覚で選んだ・その職は私塾だが、やり続けた教育は
教材も指導も天才的で、まれに見る絶大な子どもの支持をえた教育者であったが、
私は芸術家であったと思う。作家でもあったと思う。先生が亡くなった今も日々の師である。)

あれは・・・
仙台近隣の小学校教師勉強会に先生ご指名でゲストに呼ばれた日、
「ごんぎつね」がその日の研究作品。
私はそれであわてて読んだ。
夕方6時から勉強会で、それが終われば学校の先生と飲み会があって、
深夜になると夫から聞いていたのに
8時には先生と夫は高額のタクシー料金なんのその、
仙台まで飛ばして戻ってきた。

「玲子さん、ボクは耐えられなくなったんだよ。
帰ってきちゃった。
ごめんね。迷惑かけて
ボクはああいうの、いやなんだ。
勉強会が終わってもね、
誰もビール取りにも行かないしさ、
学校の先生って誰かがしてくれると思っているんだよね、
気がきかないんだよ・・
そんなことで人の気持ちなんかわからないよー・・・

八杉先生は飲むと歌った。プロの歌手のようにすごくうまくて、
笑うと子どものようで、会話が洒落ていて
可愛くて、憎めなくて、傷つきやすくて、
「人はさ、文章じゃわかんないよ、
顔だよ!」
感覚は刃物に近かった。

あの夜、
我が家に着くなり、アルコールはほとんど入っていないのに
先生は泣いていらした。
いたたまれないよ・

八杉先生、
ビールがすぐ出てこないだけじゃなくて
なんでお暇したのか、今はわかりませんが、
教師がああでもない、こうでもない、
教育って、教師ってなんだろう?と思われましたか?
「玲子さん、ビール飲もう」
あの時のこと、
思い出しています。
ごんぎつねの筋・・・
「きつねのごんは兵十が母親に食べさせたい,
うなぎにいたずらした。
ごんは兵十の母親の葬式にでくわす。ごんは兵十は母のためにうなぎを取ろうとしていたのに
なんて悪いことをしたと思い、いろいろ贈り物をする。
兵十は不思議な出来事に神様のおかげと思う。ごんはせっかくの自分の心が
報われないと知り、その日も兵十の家へ・・・
兵十はごんの気持ちも知らず、撃ち殺してしまう。」

先生・
教師の集団は八杉先生の見解を聞こうと全員、顔を先生に向けたのでしょうね。
参考になるなら何でも聞こうと、学校の体質の臭さでしたか?
ほんのひとかけらでも、授業の足しにしたい、
胡散臭い匂いでしたか?

先生
読むだけでいいとはいえない、
素通りできないのが教科書!
どんな作品でも教科書に載ると、先生も子どもも親もやっきとなって・
うちの子はわかっていなんです。教科書が!
読解力とやら?
さっぱし!という子は国語力のない子になってしまいます。

八杉先生、またひとつ思い出します。
初めて仙台の講演をお願いした時、
「学校が本妻で、塾は愛人じゃないんですよね。
学校だけが一番じゃない。
子どもたちは教育を受ける窓口がいっぱいあっていい。
塾は愛人ではないんですね。でも教育費の二重払いが申し訳ないと思いますね」
おっしゃった。

先生、
私、本妻の学校の先生にほめられるようになんて、
今日、考えていました。

私は子どもたちに
針美南吉の物語は難しいね。
今わからなくともいいの。
眠くなっても仕方がない。
思うことを言って
少しでも何かを感じる子がいたら
「えらいね」
ほめてあげればよかった。
塾だから月謝もらっているから、学校の先生にほめられたら
いいな!ってそればかり思っていました。

本当は私・・、
新美南吉も宮沢賢治も好きではありません。
宮沢賢治「注文の多い料理店」「よだかの星」「永訣の朝」
これ以外はつっかかって先に進みません。

いっそ、
「私ね、ごんぎつねも好きじゃない。
学校でほめられなくともいいよ・いい点とらなくていいよ・
つらいね・この話・
いたたまれないね・
10歳じゃ、この話は読んでもいいけど
つまらなかったらそのままでいいよ」

「先生、ごんぎつねは嫌いなの?」聞かれたら
「うん・あんな最後はいや・・もし自分がごんを鉄砲で撃った
兵十だだったらいたたまれない。
そこにいることすら無理な物語・
好きじゃない。

人間は傲慢である・
そろそろ対面すべき15才にこそ紹介したい。

10才から12才には
子ども扱いしたくはないが、
(大人の話でもいいが)
楽しくて、うきうき、わくわく
これから生きるのが興味津々っていう話がいい。

石山桃子(児童文学者・くまのプーさん・ブルーナ・ピーターラビット訳者)
「私は何度も何度も心の中に繰り返され、
なかなか消えないものを書いた。
おもしろくて何度も何度も読んで人にも聞かせて
一緒に喜んだものを翻訳した」
「5才の人間には5才なりの、10才の人間には10才なりの
重大な問題があります。それをとらえて
人生のドラマをくみたてること。
それが児童文学の問題です。
・・・・私はこの言葉が好きです。

八杉先生、いたたまれなかったのは
ごんぎつね、でしたか?
学校の教師の匂いでしたか?

書き散らかしてしまいました。
今北玲子

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